「契約の龍」(105)
- カテゴリ:自作小説
- 2009/08/27 19:14:45
「…見違えた。声を聞いていなかったら、判らなかったと思う。随分大人っぽく見えるから。それから、とても綺麗だ。あとは…」
「そんなに立て続けに言われると、逆にうそくさいなあ」
クリスが口を尖らせて言う。その唇に置かれている色は、ついばみたくなるような、熟れた木苺の色だ。そう思うのは、多分俺だけではないだろう。
「…キスしていい?」
クリスが驚いたような顔をして、ゆっくり上下左右を見回す。
「………ここで?…こんな時間から酔ってるのか?」
「アルコールは口にしていないが?酔ってるとしたら、この場の雰囲気に、だな。…物陰の方がいいなら、移動しようか?」
手すりから離れ、クリスの方に近付く。
「今から酔ってたら、冬至の日には泥酔だよ?…やっぱり、中身をどっかで入れ替えてきたの?」
「…そうかもしれないな。そうでもしないと楽しんだりできないし、こんな状況。……どっちがいい?酔っ払いのアレクサンダー・ロジェと中身が別人のアレクサンダー・ロジェでは」
「…私は……」
不意にクリスが踵を返して階段を上っていく。
「…カードを取りに行かないと。そろそろ時間だし。…アレクはどうする?」
階段の一番上でこちらを見下ろしてそう言う。
「…どう、って?」
「控室までのエスコートを頼もうかと思って。それとも、セシリアの見張りを続ける?」
セシリアには悪いが、逡巡した時間は、ごくわずかだった。
「…よろしければ、ご一緒させていただきたく存じますが」
「では、近う寄るがよい」
時代がかった言葉を口にし、こちらへ手を差し伸べてくる。たったそれだけの仕草が、とても神々しく見える。どうしてだろう?
階段を上り、芝居がかった仕草で、恭しくクリスの手を取る。
「では、向うとしようか?」
嫣然と微笑みを浮かべてそう言い、廊下を奥の方へ進む。
廊下の角をいくつか曲がり、人通りが少なくなったところでおもむろにクリスが言う。
「さっきの答えだけどな、…私は見てくれや振る舞いがどうであろうと、…どんなアレクでも好もしく思うよ。…まあ、さっきのは、ちょっとばかり違和感を感じないでもなかったけど」
そして、廊下に在る壁龕の一つに体を滑り込ませ、こちらを手招きする。
「…あんな大勢の人の目があるところで、あんなこと聞いてくるなんて、らしくないにもほどがある。…どうした?」
自分が原因だとは思わない、のか?
手を伸ばして、人差し指でクリスの頤を持ち上げる。親指の腹で、そっと唇をなぞると、クリスがかすかに体を震わせる。
「人目がなければ、いいのか?」
「…それは…」
束の間、視線がさまよう。
「答えなくちゃ、わからない?」
「…わかってても、聞きたい」
わずかに首を傾げたクリスが、こちらに手を伸ばしてくる。両手が首の後ろに回され、頭が引き寄せられる。かぎなれない化粧品の匂いが強く匂う。
「……キスされるのは好きだけど、人に見られるのは、やだ」
押しつけた唇を離し、囁くような声で言う。
「わかってても聞きたい、だなんて、いつからそんなに意地悪になった?」
「…さあ?」
無意識にクリスの背中に廻していた手を、そっと緩める。
「…ところで、そろそろ本当に控室に行かないとね。遅刻のペナルティはなかったと思うけど」
「そうだったね。…最初が肝心だしね」
最初が肝心、とは、何の事だ?
疑問に思っていると、クリスが俺の横をすり抜けて、壁龕から出た。そして、何事もなかったかのように控室へ向かった。