消化試合「夏の思い出」
- カテゴリ:人生
- 2014/07/11 12:59:43
夏と言えば、岡山です。
誰が何と言ったって、岡山なんです。
小さい頃、体が弱かったので、人一倍手のかかるわたしは、
生まれてからずっと、ばあやが付いていました。
ばあやは、岡山県の人で、夏の里帰りには、
必ずわたしを連れて、自分の田舎に帰ってしまうのです。
そのたびに、父と口喧嘩になっているのですが、
それでも「お暇を頂きます」といって、
お暇ごと、わたしを連れ帰ってしまうのでした。
ばあやは無敵で、ある意味、誰のいうことも聞きませんでしたから、
わたしには、鉄壁のマジンガーゼットでした。
都会生まれの都会育ち、わたしは夏になると、
岡山の田舎で、自然に囲まれて暮らすことが楽しみになっていました。
夜、部屋の灯りに呼び寄せられた虫を食べに、
綺麗なアマガエルがガラスに張り付いていたこと。
1年ぶりに出した浴衣に、大きなクモが付いていて、怖くて泣いたこと。
カルピスを飲もうとして、山の水を入れたら、
赤ミミズが入っちゃって、カルピスの白に、チラチラ赤いのが見えたこと。
雷が鳴った夕方、部屋に蚊帳をつってもらって、
団扇であおいで貰って、雨の景色に見入っていたこと。
川で遊んだこと。
その川に、おおきな蛇がいたこと。
「スイカを取ってきて」と言われて、山の木の上ばかり探していたこと。
その足元に、たくさんスイカが生えていたのが、わからなかったこと。
羽釜で炊いたご飯、おくどさん(かまど)の焚き付け、
夜の星の綺麗だったこと。
ばあやは、小学生の頃、老人施設で亡くなられました。
形見に、金の時計が送られてきましたが、
わたしに似合うようにと、赤い革ベルトに替えられていました。
父や母には、あまり愛情はもらえませんでしたが、
ばあやは、わたしにとって無私の愛、親よりも深い愛情を、
怒濤のごとく、わたしに注いだかけがえのない人です。
いまでも、岡山のあの片田舎には、
わたしの夏が、そのままで残っているはずです。
井原というところから、もっと奥地に、
大きな滝のある、小さな集落でした。
一度、行ってみたのですが、まったくどこか分かりませんでした。
そうですね、
また、探してみようかなあ。
ばあやと、通った駅も廃線で無くなっていましたし、
道路は舗装されていて、さっぱりわかりませんでした。
小さな集落でしたから(今でも、村人の家の配置が描けます)
廃村になったのかもしれません。
でも、わたしの原風景なんです。
あの田舎が、わたしの故郷です。
愛情は、親からだけに貰うものではなく、ようは、プラマイゼロになればいいのだと分かりました。
ばあやが、盲愛してくれたぶん、
親の愛情がマイナスでも、じゅうぶんオーバーフローしました。
今では、親のことも愛せますし、理解も出来ます。
無条件で、愛されるという状況を貰えたことが、
わたしを助けてくれましたが、
全体で考えると、ばあやを雇ってくれていた親にも、感謝できます。
小学校5年くらいまで、ばあやが付いていてくれました。
かなりの給料だったと思います。
親があってこそです。
その集落が残ってなくて、残念な顔をさせたくないばあやさんが
ちょいちょい迷わせたのかもしれませんよ。
良い思いでは思い出のままが一番きれいなのかもしれません。
私はすぐ下に弟がいたことや、ハハオヤが私に嫉妬して(今まで一番大切にされていた女の子だったのに、その座を盗られたとう理不尽な理由で)私をネグレクト気味だたことや、喘息で虚弱体質だったことや、多分ADDという発達障害のせいでしょう。
哀れに思った父方の祖父母が私を育てていたのです。
私は祖父の秘蔵っ子でした。
ただ夏はお施餓鬼で忙しいので(祖父は住職です)、それと喘息の転地治療で海の傍の旅館にあずけられていました。8月のお盆が終わると帰れるのですが。
私はハハオヤからもらえなかった愛情を祖父母にいっぱいいただきました。