ボクとキリスト教徒の間に起きた確執。
- カテゴリ:日記
- 2014/09/08 00:52:30
今日書くことはボクとキリスト教徒の間に実際に起きた確執が、あなたにどう役立つかわからないが、ふと伝えてみたいと思った。
ボクはキリストの祈りを教えてもらい、実をいうと今でもお祈りを捧げている。
だからと言って、キリスト教徒には絶対なりたくないw
それには理由がある。
おそらく知らない人が多いと思うが。
イエス様の生きていた頃のキリスト教とは様変わりしているという事だ。
ニーチェの「神は死んだ」というのはそういうところから来ている。
聖書の使い方を紹介しよう。
聖書の使い方を紹介する事が、キリスト教が大きく変わってしまった事を如実に伝える事ができるので、紹介する。
まずボクの出会ったキリスト教徒。
「死について教えてください」
「死とは休息です。ほら、このページを見てください。」
「たしかに。霊の存在を否定している文章にも読みとれますね」
「いいえ、違います。否定しているじゃないですか。何を読んでいるんですか」
「じゃあ、この万軍の神。この言葉はどう解釈します?」
「そうですね。それは神の力の偉大さを表しているだけですから。万軍という表現をしているのかもしれません。残念ながら今の私では推測でしか言えません」
ボクは相手の矛盾を教えてあげたのですが・・・それは通じませんでした。
今のキリスト教徒が全部こういう人だとは言いません。ただどこか文章の意味を自分たちの都合の良いようにしか捉えている所に問題があるのです。
ちなみに・・・今のキリスト教の死の概念として有名なのは死んだら休息。肉体は焼かずに土へ埋める。また死んでしまうとそこには霊魂は無いと・・・キリスト教徒は考えるのでブルドーザーなどで、平気で死体処理をしているテレビ放送を見たことはカルチャーショックでした。
死んだ人の肉体を焼いて骨になって、壺に入れるまでいたわる心があるのは日本人です。
日本の神社の教えに万物同根という言葉があります。
道端の小石も、ボクたちの身体も、建物も、自然も、すべてに聖なるエネルギーが宿っているという考え方です。
この考え方は「聖書にもあります」
いいですか?聖書にもあります。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神。全地に満ちるものはその栄光である」イザヤ 6-3
地上にいるすべてのものはその栄光=万軍の神。
聖なるかな。
それはボクたちのことです。
日本の神社と似通った考え方があるのです。
つまり、本来は死んだあとの肉体もあわれむ対象となるわけです。
ほんの少し読解力があれば読み解ける事。
なのにその部分はわからないで終わらせてしまう。
白と黒をはっきりとつけてしまう。
そう先輩方から教わってきたのでしょう。
それが悲しいです。ただ・・・世界には、この地球には聖書を正しく伝えている活動団体も存在します。
それは残念ながら宗教団体では無いという事だけ知っておいてくださればうれしいです。
さて、次はボクの使い方です。
聖書を手に取り、「イエス様、癒しのことばを」
そうやって、目をつぶり、ページを開きます。
今日いただいた言葉は
「神殿を壊してみなさい。私は3日で建てます」
「46年かかって作った神殿を3日で建てるだと。中略。イエスは身体のうちにある神殿の事を言われておられたのである。
でした。
心にこそ神殿を。あなたの礎(いしずえ)を。
あなたの中にある無限の力。
人生はあなたに問うています。
その無限の力にどんな役割をあたえるのか。
それはあなたの楽しむ先にある。
楽しむとは、快感とは違います。
途切れる事のない喜びです。他人も笑顔になる事です
世界のしあわせであり、宇宙のしあわせです。
あい
長い文章ですが、楽しく読ませてもらいました。
>その世界に閉じ込められてしまうからです
宗教に属している人は・・・その事にさえ気づいていない感じがします。
そしてとてもまとを得ているよい言葉だと感心しました。
あなた様にはよい心理学を導いて頂いたことを心より感謝しています。
>柳澤桂子先生の「意識の進化とDNA」という本の中で、神学者ボンヘッファーの言葉が紹介されています。
>神の前で、神とともに、神なしに生きる
まだ実は半分も読めていません。本の中で、この素晴らしい言葉に出会うことを楽しみ読み進めたいです。
あい
>今の、時代にこの日本に生まれて、本当に感謝している。
>生きることを楽しむ事。命を楽しむ事。
>そして、日本人らしく生きたいと、最近よく、考えています(=゚ω゚)ノ
この三行はボクの生きる目標であり、誇りです。ボクはもっと日本を好きになってもらいたいと、常々思っています。今、地元の人と一緒に地元を好きになるためのパンフレットを作成しています。
あい
私が思う事は、どの宗教も良いものだと思います。
人殺しや、お金儲けにならなければ、信仰心というのは人間にとって必要不可欠の要素だからです。
この対象は、神でも、仏でもなくて構いません。たとえば、身近な人でもいいですし、歴史上の人物でも良いとおもう。木々でもいいし、食べ物でも構わない。
信じて、仰ぎ、心で感じる事だと思うからです。
宗教は、後から人が作り上げて来た理想の生き方なんじゃないかな?って。
だから、どの宗教も本当の原点はみな同じ所から生まれたのだと私なりに考えてます。
今の、時代にこの日本に生まれて、本当に感謝している。
生きることを楽しむ事。命を楽しむ事。
そして、日本人らしく生きたいと、最近よく、考えています(=゚ω゚)ノ
わたしが、どの宗教にも属さないのは、その世界に閉じ込められてしまうからです。
わたしも、聖書は読みます。けれど、やはり、キリスト教徒には、なりたくありません。
それは、宗教を否定的に考えているからではなく、むしろ肯定的にみつめているからと信じています。
>「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神。全地に満ちるものはその栄光である」イザヤ 6-3
とても素敵な言葉ですよね。
柳澤桂子先生の「意識の進化とDNA」という本の中で、神学者ボンヘッファーの言葉が紹介されています。
神の前で、神とともに、神なしに生きる
残念ながら、ナチスに抵抗して捕らえられ、長い獄中生活の後に処刑されてしまいます。
わたしは、ボンヘッファーは、神律のかただと、信じています。
仏教に解脱という言葉がありますが、
キリスト教の中でも、こうした生き方をしておられる方はいるかと思います。
その信仰が、この宇宙のすべてと、考えてしまうと、他人や他の宗教を理解することはできません。
それは、宇宙(この世界と呼んでもいいかもしれませんが)ひとつきりでは、ないからです。
ひとりの人間の存在も、ひとつの小宇宙です。しかも、無限の広がりを持っています。
そのことに目覚めてゆくこと、それが神律であり、解脱であり、悟りであるのだと感じるようになりました。
もちろん、わたしも、宗教を批判するものでは、ありません。
どの宗教においても、その教えは、すべて正しいのです。その世界の中だけに、おいて、正しいのです。
わたし自身の考えが正しいのか、正しくないのかは、わかりません。
でも、世界の本当の平和を考えるうえにおいて、この道しかないと、信じるのみ、なのです。
あなた方はあなた方の教えを守って生きてください。
あなたの意見も正しいし、ボクの意見も正しいかもしれません。
お互い第3の道を模索できるならしたいです。それ以外の提案は容赦なく削除させていただきます。