リベレーター(解放者) 【1】
- カテゴリ:自作小説
- 2014/12/12 22:57:10
# - peace0
兄は、雨の日の散歩が好きだった。
*
その日も、雨だった。
雨の日は嫌い。
水溜りで靴が濡れるから。
しっぱねが上がって、せっかくの洋服が汚れてしまうから。
冷たい風が、湿り気混じりに髪の毛をグシャグシャにしてしまうから。
外から見る家の中が、酷く暖かくこの世のものでないように思えるほど、雨の中静かに歩く自分たちを寄せ付けないものに見えたから。
どうして、雨の日が好きなのかと兄に尋ねたことは無かった。
尋ねないまま、終わってしまった。
硝子に筋を付ける無数の雫を目で追った。
隣に座る妹は、真っ白な紙に赤いクレヨンで、わけのわからない、絵を描いていた。
大きな蛇と、大きな狼。
真ん中に居るのは、兄だったのだろうか。
妹は、視線に気づくことなく、ずっと、絵を描いていた。
長い、夢を見ていたのかもしれない。
覚めなければ、良かった。
兄に呼ばれた。
顔を上げ、妹は手を差し出してきて、一緒に駆け寄った。
兄を挟んで、手を繋いで、散歩に出た。
雨は嫌いだった。
でも、兄が好きだったから、雨を好きになろうと思った。
結局、好きになれなかった。
一生一緒に、居られなくなるのが嫌だった。
忍び寄る足音に、似ていたから。
しとしとと、記憶の海の片隅で、永遠に降り続ける雨の下。
傘を差した誰かの顔が、どうしても思い出せなかった。
いつものように、何も言わずに兄は歩いた。
優しく手を引いて、ゆっくり歩いた。
二人が遅れて、転ばないように。
小さな段差に足を取られないように。
水溜りで滑らないように。
大きな傘の下で、窮屈そうに兄妹は寄り添った。
言葉を交わさずとも、それで良かった。
通り過ぎる町並みは、寂れて静かで、いつも、眠ったようだった。
目を覚ますことは、無いのだろう。
くすんだ窓硝子の向こう側、目に付いた店の中は、埃まみれだった。
住む人も、壊す人も居ないまま、朽ちていくのを待つだけの存在だった。
横断歩道で、青信号を待った。
ちょっとした不幸だった。
ちょっとした非現実だった。
本当にそれを望んている人たちにとっては、取るに足らない、つまらない事故だった。
安易な死の願望を抱くほど、心も体も成長していなかった。
なのに視界は、真っ赤に染まった。
鼓膜は凄まじいブレーキ音に劈かれて、なんだか、良く覚えていない。
痛くも、寒くも、無かった。
横たわる妹を、横になった視界に映していた。
兄の顔が、すぐ横にあった。
身体が動かなかった。妹も動かなかった。
兄は冷たかった。目を閉じた横顔が酷く蒼白で、綺麗だな、と思った。
〝死ぬ〟という言葉の意味さえわからないほど、幼かった。
*
兄は、雨の日の散歩が好きだった。
だから自分も、好きになろうと思った。
「青狼(せら)、いってらっしゃい」
玄関に出て、靴を履いた。
背後から聴こえる妹の声に、振り返らずに家を出た。
可愛らしい鈴の音が、ドアを閉めると隣で鳴った。
だから手を繋いで、傘を差した。
雨の日は、嫌いだ。