娯楽としての聖書読み
- カテゴリ:小説/詩
- 2015/04/25 09:18:15
新約聖書を読み始めたきっかけは誠に低俗なものでして、
当時狙っていた女性がクリスチャンだったから。当然玉砕。
いまだに愛読してるのは口語版のその版です。ボロボロ。
さまざま雑読すると、聖書の受容にもいろいろ異端があるのが分かり、
そっちの方面にもハマった。ルナンとか、ニーチェとか。
「真のキリスト者は唯ひとりであり、その人は十字架の上で死んだ」なんてのにシビれた。
臨済宗も好き、イスラムの教えにもなかなか面白いのもあるし、
ゾロアスター、マニ教、アメリカンインディアンの自然観……
宗教的なものへの興味はいまだに持続してますです。ただし、敬虔ではない。
以下、真摯な各信徒の方々の激怒を買う恐れあり、恒例の謝罪を。
聖書をプロパガンダ的な書物に仕立てたのは後世の連中であり、
ナザレの大工の息子はかなり野性味あふれるヒッピー的野郎だったのではないか。
え、足が萎えて歩けねぇ? 気合だよ気合、オラ、シャキッとしやがれ。ほれ立てた。
オメエラ、世界最古の商売に勤しむ女をコケにすんじゃねぇ。敬意を払え敬意を。
税金を誰に払うかだと? 社会で生きていたきゃ払え、でも魂は売るんじゃねえぞ。
ウワー、お叱りの山が届きそう。でもですね、きっとこうだったと思うんですよ。
ユダはモノスゴーク真面目で、コイツを愛してたに違いないと思うし。
彼なりに考え抜いた結果がアレだったんだと思うなー。
世と矛盾する思想が横溢しているのもパンキッシュで楽しい。
100より目先の1に拘ったっていいじゃねえかよ、本気なら。
富? 権力? ツマンネー、いらねー。 好きなように生きるだけだよサタンさん。
臨済宗開祖の栄西の説教にこんな一節がある。
大工の息子が言葉にせず、皆に気づいてほしかったのはコレだと思う。
うろ覚えですが、超意訳誤訳で引用してみましょ。
「仏って何か、だと? バカかお前ら。今俺の目の前に座ってるお前らがそうだ」
「親を殺し師を殺し仏を殺す。残るのは何だ? オマエだけだろ?」
「悟りとか大悟ってのは揺るぎなき自己肯定なんだよ。とっとと気付けよ」
いかがでしょ? 神とか仏とかって『内』にあるものだと思うのです、私。
それに気づくまでの刻苦勉励の過程を記したのが宗教書ではないのかしら。
だから面白い。人が人として生きた苦闘と栄光の歴史。それが私の聖書観。
今日は。コメント有難うございます。国文出身なんですが洋物も好きでして。
世界名作童話をむさぼった幼児期から、なんとなく宗教観が形成された気が。
物語の主人公って、みんな『内』に確固とした自分を持ってる気がして憧れるのです。
ちゃんと聖書も宗教書も読んだ事がないけれど、「『内』」にあるに同意します。
真実はシンプルで、理屈をこねるほどおかしくなると思うのです。
今でも地方の古老は「神さん」って言い方を使いますよね。
汎神論も好きなので、神とか精霊とかなんやかや、どれも我々と大差なきものだと思ってます。
というよりも、いのち在るものなんてのはそこら中に満ち溢れてる。全てがいのち。そんな気分です。
数々の奇跡の舞台裏も なるほどそうかも? と 思える自然なエピソードになってましたし、
マグダラのマリアは魅力溢れる女性に描かれてました♪
私は 「神」に「さま」をつけてはイケない と主張したいです。
お天道さま と違い 人格があるように思える・・・混同するもとになってる・・・
と 思うのは私だけ? 少数派なのかしらん? (^^ゞ