ドラマ【花燃ゆ】
- カテゴリ:テレビ
- 2015/07/14 16:31:41
花燃ゆ
NHK 日曜夜8時~
【あらすじ】長州藩の奥御殿に女中の見習いとして入った文。奥御殿は、藩主の敬親の正室・都美姫と、次期藩主の元徳の正室・銀姫を筆頭に、大勢の女中たちがひしめく女の城だった。文は叱咤されながら、見習いとして水汲みから仕事を始める。その頃、長州藩が実行した攘夷への報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国連合艦隊が、下関を攻撃してきた。奥御殿でも戦の報せを聞き、都美姫が女中たちの気を引き締める。しかし銀姫は外国の軍隊にかなうはずがないと、いたずらに文にどうしたらよいかと尋ねた。文は女でも扱えるような短筒を持てばよいと答えるが、銀姫はそれでは美しくないので、奥御殿に着物を飾ろうと言い出す。
【感想】さて始まりました、大奥編。大奥と言えば一般的には江戸城の奥のことでしたが、大大名の奥のことも大奥と称したこともあるようです。とはいえやはりあまり一般的ではなかったのではないかなと思います。大奥という言葉には女の城という甘美な響きがあり、視聴者を惹きつけるために敢えて使ったのでしょうか。ぶっちゃけお殿様のハーレムですしね。しかし女しかいないからこそ、トラブルも絶えないんですよね。世間では大奥というと人気がある題材ですが、私は面倒なのであまり好きではありませんw なので今までよりトーンダウンして見てます。
【感想】さて始まりました、大奥編。大奥と言えば一般的には江戸城の奥のことでしたが、大大名の奥のことも大奥と称したこともあるようです。とはいえやはりあまり一般的ではなかったのではないかなと思います。大奥という言葉には女の城という甘美な響きがあり、視聴者を惹きつけるために敢えて使ったのでしょうか。ぶっちゃけお殿様のハーレムですしね。しかし女しかいないからこそ、トラブルも絶えないんですよね。世間では大奥というと人気がある題材ですが、私は面倒なのであまり好きではありませんw なので今までよりトーンダウンして見てます。
ちなみに、毛利家の人間関係ですが、銀姫の夫で次期藩主である元徳公は、実は敬親の養子。だから次期藩主とか世子とか微妙な表現をされているんですね。というのも、敬親とその正室の都美姫の間に子供がなかったからです。女の子が1人生まれましたが夭折したようですね。そして、実は敬親も養子で、先代藩主の実子は都美姫なのです。婿養子をとったわけですね。ということで、毛利家は養子の藩主が2代続くわけです。そして元徳が長州藩最後の藩主となります。また、江戸時代にはよくあることですが、元徳という名前は明治維新以降のもので、他にも広封(ひろあつ)・定広と名乗っていた時期がありました。定の字は将軍・家定から1文字もらっており、禁門の変で定を名乗ることを禁じられ、元の広封に戻していたため、文が奥御殿に勤め始めた頃は、広封だったはずです。名前が3通りもあるとややこしいので、ドラマでは元徳で通すことにしたのでしょうね。
四カ国連合艦隊との講和について、それまで野山獄につながれていた高杉が赦免され、これに当たったわけですが、さすがに直前まで罪人だった高杉をそのまま使者にするのは体面が悪かったせいか、家老の養子として宍戸刑部という名前を名乗らせたようです。他のことについては、例によって花燃ゆ公式サイトの白熱教室に詳しく載っているので、興味ある方はご覧ください。列強と講和を結ぼうとするとは何事だと、攘夷派の奇兵隊の藩士たちから命を狙われたとのことですが、自分が作った軍に狙われるなんて、なんだか皮肉ですね。これ以後、高杉は伊藤や井上とともに行動することが多くなります。全員海外留学の経験があるということは、やはり日本という国家を客観的に見ることができたからこその、結束でしょうかね。この時の攘夷派は、ボロボロにやられながらどうやって戦争を続けるつもりだったのでしょうか。あまりに無策、あまりに感情的。とはいえ、最初に外国船に大砲を打ち込んだ久坂と大差ないですが。高杉に久坂ほどの人望があれば、長州藩もまた少し違った方向に動いていたかもしれませんね。
さて文ですが、おそらくこの頃の記録には、文が奥御殿に上がり、美和と改名したことくらいしかわかっていないと思います。なので今回の文の行動はほぼ創作ですね。何とか歴史に絡ませようとした努力がうかがえますw 久坂の妻であったことが女中たちにバレてしまい、イジメを受けそうな文。思うに、久坂はそこまで罪人扱いされていたのかどうか、少し疑問です。確かに椋梨たちからはボロクソに言われていたかもしれませんが、最終決定をしたのは藩主ですから、あまり久坂を悪く言うと、藩主への批判だと受け取られかねないと思うんですけどねぇ。以前にも書きましたが、ドラマでは久坂家が断絶したことになっていますが、実際は久米次郎が後を継いでおり、断絶したという記述はどこにも見当たりませんでした。ただ、この時期に文は奥御殿に上がっているので、まだ幼い久米次郎を文が育てていたわけではないとは思います。