らいてうと手当法 その4
- カテゴリ:日記
- 2015/10/04 21:39:07
「REIKIと靈氣」 その4
ハヤシチュウジロウは「林忠次郎」であることがわかった
国会図書館に行くまでもなく
東京都中央区図書館で
表紙が錆になってボロボロと崩れおちる「紳士録」とともに
新聞紙と白い手袋を差し出された
何年もめくられることのなかった今にも破れそうなページから
「林忠次郎」と「林靈氣研究会」を探し出した
東信濃町は東京大空襲によって新宿一帯が見渡せるほどの焼け野原になった
戦前の東信濃町町内地図は記憶による復元地図があった
住所地番からみると林邸は甲武鉄道信濃町駅にほど近い場所にあった
戦前の東信濃町は
洋館の立ち並ぶ高級住宅地や大きな病院のある街で
政府関係者や軍人が多く住んでいた
2・26事件では鈴木貫太郎邸も襲われたが
妻の手当療法で一命をとりとめたと言われている
靈氣療法の肇祖臼井みか男の
東京での初めての靈氣療法所は、
隣町の千駄ヶ谷であったから
東信濃町は靈氣療法にとって馴染み深い土地でもある
林の自宅に併設された林靈氣研究所は
細長い施術室に7~8つの施術台が並べられていたと聞いた
1996年、四谷三丁目から信濃町へと向かう角に
偶然の産物であるが
ビルの屋上の広告塔にREIKIの奥傳のシンボルが立っていた
世界のREIKIヒーラーたちがこれを見たら
「神秘の国」の一般企業の広告塔に驚くことだろう
信濃町ツアーとREIKI講習会をわたしは開催した
林は関西や北陸に出張し靈氣療法を広めた
北陸の靈氣講習会の写真には30人ほどの人がならんでいる
海軍大佐だった林忠次郎はハワイへの何度かの渡航を理由に
特高警察に呼び出され
現代社会では不当とされる尋問を受けたあと帰宅し
白装束で弟子を呼び集め
「日本はこれから大変なことになる」
と別れの挨拶として言い置き
皆の見守る中で座ったまま覚悟の訣別をしたという
これを「切腹」という説明がインターネットに見られるが
わたしは呼吸法による無息の訣別と見たい
明治・大正・昭和初期は
様々な武術が継承されて盛んであった
軍人である林は何らかの武術を学んでいたと考えられる
東信濃町から徒歩で30分ほどの現・若松町には
手当療法の一種である杓子療法を行っていた大本教の信者であった植芝
が合気道道場を開いていた
後年、植芝老が自分を取り囲んだ何人もの弟子を一瞬で倒し
あろうことか自分は離れた階段に座っていたという弟子の談話がある
信じられない事態に、もう一度見せてくださいと言う弟子たちに
そうそうはできない 死んでしまうと、答えたという
呼吸力で目にも留まらぬ速さで移動したと思われるが
通常使っている人間能力を超える呼吸力を植芝老も修得していた
そういう達人たちが生きていた時代だ
もうひとつの推論がある
林忠次郎は曹洞宗であり
禅の呼吸法を修得していた可能性もある
大正4年を初版とする禅呼吸を説いた
「錬膽法ー永平寺前管長 日置黙仙禅師述」実業の日本社出版を見ると
禅の基本修養法である呼吸法は
「体全体の八万四千の毛穴より自由に呼吸することができる。
尚、これに止どまらず、ついには無息にいたる(著者現代文訳)」
とある。
靈氣研究者・林忠次郎は息を止める呼吸法で生還せず死を選んだとしたい
靈氣を循環させる呼吸を極めた林には
親族・靈氣関係者を前に別れを告げ血を流さない訣別がふさわしい
林忠次郎は靈氣奥傳を20人ほどに伝授したと聞く
歴史を振り返れば海軍のハワイ真珠湾奇襲が翌年に起こる。
治安維持法下による拘束をうけた林忠次郎は、
その時局を知り
自分一身で理不尽な時代の嫌疑を払いのけ、
「林靈氣研究会」の関係者を護るために
身の潔白を表明する方法として選んだ自決であったのではないだろうか
戦争による弾圧によって林靈氣研究会は閉鎖した
祖母から靈氣療法という言葉を聞いたことはないので
靈氣療法であったかどうかは今はもう解らないことだが
祖母の手当法は家族の中でさえ語られることをはばかられ
「外にもれるような大きな声で話してはいけない」と母に怒られた
「GHQは怖いんだ、憲兵が怖かったようにね」
と祖母に口止めされたことを覚えている
軍事下の日本で手当法の名前が語れなかった時代は
弾圧の時代であったことは確かであり
戦争法案が国会を通過した現在
平和な時代にあってこその靈氣療法をめざす人間にとって
平和への行動は続けていかなければならない
日本に再上陸したREIKIヒーリングが盛んになるにつれ
戦時下をくぐりぬけ伝えられてきた霊氣療法の情報が現れ始めた
林忠次郎から直接靈氣伝授された潮(山口)千代子を京都に訪ね
「直傳靈氣」として奥傳伝授をうけた
潮(山口)千代子の靈氣遠隔法はそれまで感じたことのなかった強い確かな力を持っていた
しかし「直伝靈氣」の療術は筋肉の力による療術を主としており
自然から湧き出でてくる力=靈氣を十分に生かした技術よりも
押圧の強いものであった
そして、祖母の手当は技術的にも「ヒビキ」の現れ方も
REIKIヒーリングに近かった