そもそも自由とはいったい何なのか
- カテゴリ:その他
- 2009/09/13 00:01:09
最近、あまりにも興の赴くままに書きすぎたので
たまには、クソが付くぐらい真面目な話をしようかと。
突然ですが、皆さんは「自由」をどのようなものだとお考えでしょうか。
しばしば「自由」と「権利」が混用されているのを見かけますが、
結論から言いますと、この二者はベクトルがまったく異なります。
そもそも、まず認知していただかないといけないことがあります。
それは「自由」とは本来的には「何をやってもいいこと」ではなく、
実は、むしろ「何もやらなくていいこと」に比重があるということです。
それは「自由」には2つの分け方が出来るからです。
英語を例にとってみると分かりやすいかと存じます。
まず、日本語で言う「自由」を英訳すると、
実は二通り考えられます。
"liberty"と"freedom"の二つですね。
この二語を日本語で敢えて訳し分けるとすると
「積極的な自由(=好きなことをやってもいい)」「消極的な自由(=嫌なことをしなくていい)」
となります。
なぜこのような違いがあるのかというと
元々束縛や圧政が前提にあるのが"liberty"
ないのが"freedom"だからです。
若干、政治的なニュアンスを含むわけです。
だから、自由主義(しばしば民主主義と混同されますが、本来的には違うものです)
は英語で"freedom"の形容詞形を使って"freeism"とは言いません。
"liberty"の形容詞形を使って"liberalism"と言います。
今回大敗した自民党、つまりは自由民主党も英訳すると
"the Liberal Democratic Party of Japan"となります。
それゆえ、自民党が提供するインターネット政治広報活動の実験サイトのことを
頭文字をとって"LDP"ラボと言います。
実は、この名称そのものは自民党の掲げる
保守主義(conservativism)とは相対するのですが、
その話は余分なので割愛します。
もし、圧政が前提にあるとすると、
それはすなわち、行動が抑制されることになりますね。
人間って言うのは、不思議なもので
抑制されると、そのように指定された禁忌をやりたいと望むようになります。
例えば「食べるな」と言われて目の前にクッキーを置かれると
つい食べたくなりますよね。あれと似ています。
逆に、束縛も何もない状態では、そういうことは起きません。
クッキーも何もないのに、食べようとは思わないでしょう?
でも、お腹が空けば、クッキーに限らず何か食べたいと思うようになりますね。
これは「空腹」突き詰めて言えば「飢餓状態」が人間にとって嫌な状態だからです。
この二つを融合させたものが日本語での「自由」にあたるため
「自由」には「リバティー」と「フリーダム」に通ずる精神が
根本にあると考えたほうが良いでしょう。
つまり、それが「何もやらなくていい」ということになるのです。
「リバティー」に関して言えば、
好きなことをやってもいい、ということはやらなくてもいいということになりますが、
「フリーダム」に関して言えば、
嫌なことをしなくていい、といっても
そもそも嫌なこととは、本来的に実行されないことですからね。
「自由」=「何もやらなくていい」という根本はお分かりなりましたか?
このことから、「自由」そのものが「個人主義」とほぼ同等であるといえるのです。
(ただし、「自由主義」は「個人主義」とは一致しません。)
もし、「自由」が「何をやってもいいこと」となると、
そこには必ず、自己とは別の対象、つまり他者の存在が前提にあることになります。
志向の対象がなければ、行動そのものが発生しませんからね。
ところが、「自由」が「何もやらなくていいこと」となると、
必ずしも他者の存在は必要ではなくなります。
つまり、「私的な部分」「プライベート」が生じることになり、
「個人主義」と呼ばれる思想が生まれたわけです。
「自由」=「個人主義」ということは、
「自由」とは他者が関与しないもの、邪魔もしないが手助けもしないもの、
ということが言えます。
つまり「自由の尊重」とは指図もしないし、邪魔もしないし、同調もしない、
とにかく、自分以外の対象に関わろうとしないことを指すのです。
逆に、誰にも邪魔させないという他者の手助けを必要とするもの、
例えば、「自由の保障」などは
「自由」というよりむしろ「権利」に値します。
「自由」について少しでも理解していただけたでしょうか。
まさに「自由」とは寂しいモノの象徴なのかもしれません。
他者からまったく干渉を受けないものなんですから。
自分が「自由」であるためには、相手が「自由」であろうとなかろうと関係はありません。
相手側からしても、それは同様です。
「自由」の概念において
お互いが等価値であるか、否かも例外ではありません。
むしろ、互いに束縛されていると考えれば、「不自由」の部類に入ってしまうでしょう。
つまり、わたくしが言いたいのは
普段みなさんが自由だと思っていることは、
本義的な「自由」から大いに外れているってことなんですよ。
わたくしは本文で「権利」の例を挙げましたが、
他にも、いろいろと具体的なものがあろうかと思います。
それこそ、HalfMoonさんが挙げたような例が、ね。
自分が自由で居るには相手にも自由で在って欲しいじゃん。
お互いが等価値で在る事が自由だと思うよ。
「自由」という概念の中には、そういう考え方は存在しません。
早い話、人から「お好きなように」「勝手にやれば?」と言われるのが自由なんです。
詳しすぎだし・・・w
でも理解できましたょ♪
クソ真面目だ・・・!!
なんか難しくてよく分からないカモ((私がバカなだけww
でも少しは理解できたと思う
自由については良く判らないけど、最低限の理として相手が嫌がることしたら反則かな?