野坂昭如は 酔うしかなかったのだと思う。
- カテゴリ:小説/詩
- 2015/12/12 11:17:19
酒乱で無頼派のイメージが強い野坂氏の抱えた哀しみの深さは、
あの泥酔と傍若無人さに全て現れていたのでしょうか。
彼の凄さを認識したのは随分後になってからでした。
山田正紀の『弥勒戦争』に、人の世の悲惨に意味はあるか、という問いに対し、
それが恒常的な状態なのだと主人公が答えるシーンがあります。
すぐに野坂氏のパブリックイメージを連想しました。
江戸の戯作的饒舌体を意図的に真似ているかと思っていましたが、
読むうちに違いに気づいた。これは酔漢の終わらない繰り言である。
話せば話すほど深みに嵌り、癒されることなく続く、永劫の独白である。
凄く弱い人なのだと思う。どれほどの喪失感と哀しみを抱えていたのか。
それに耐えきれず雑文を綴り、早口でまくしたて、酒を呑み、泥沼に堕ちる。
野坂氏の姿を見ることは、ものすごく辛く、テレビでも見ないようにしていた。
争いは、戦争はなくならない。今までもこれからも決して。
だから悲惨はいつもそこに、あそこにある。私はそれを無視して生きている。
野坂を見ると辛いのは、現実の悲惨に直面させられるためだろう。
戦争体験を語り継ぐ方は多い。彼もその一人だった。
また、語ったところで何も変わらぬことを知りながら、それでも続けた馬鹿だった。
だから野坂は酔うしかなかった。いや、生涯酔ったふりをして過ごしたのかもしれない。
なぜ生き続けたのだろうかって? 分かりきったことです。
世の悲惨と不条理を全て引き受けたつもりで、自らを罰し続けるためでしょう。
彼の死は平安や救いとは無縁だと思う。さらなる地獄への入口なのでしょう。
戦火で親兄弟を失った少女が飢えて衰弱し死ぬ掌編があります。
一度読んで涙し、二度と読もうと思わなかった名作。救いなんてどこにもない。
死が満ち溢れたこの世界で、だから野坂は、泣かないために呑み続けたのだ。