截拳道
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- 2015/12/27 07:35:45
1960年代にブルース・リーは、米国で詠春拳を基本とした振藩功夫(ブルース・リー式グンフー)を教えていたが、ロサンゼルスに移ってからさらに実戦的な武術を模索して研鑽・実践を重ねていき、1966年にその名称を截拳道とした。「相手の拳(攻撃)を截(たつ、防ぐ、さえぎる)道(方法、ダオ)」という意味であるが、これは「敵を倒す」という武術としての側面を表すとともに「生きていく上で直面する障害を乗り越える方策・智恵」も示したものである。リーは東洋哲学、特に古代禅仏教と老荘思想を高く評価しており、彼のルールに縛られないファイティングスタイルも、そうした自由な思想に多大の影響を受けていると思われる。そうした考えからリー自身は、自らの格闘術に截拳道という名称を与え、カテゴライズすることには少なからず抵抗を感じていたようである。事実、ブルース・リー本人は、彼の武術を教える際に「Jeet Kune Do」を看板として掲げることを許してはいなかった。
ブルース・リーの截拳道創始までの年表[編集]
- 1959年 - ブルース・リー渡米。サンフランシスコにて、学校のクラスメートに詠春拳を指導する。
- 1961年 - ワシントン大学入学のために移住したシアトルにて、道場である振藩國術館を開設。詠春拳を基本とし、他の武術/格闘技の技術も取り入れた振藩功夫を指導する。
- 1964年 - シアトルの道場はターキー木村に任せ、移住先のオークランドに開設した第2の振藩國術館で振藩功夫を指導する。道場破りに来た中国人拳法家(白鶴拳)との闘いに約3分で勝利したが、相手を倒すのに長時間かかってしまったことを反省し、振藩功夫を洗練させるべく、研究と実践に取り組む。截拳道を創始していく引き金となった。
- 1965年 - 截拳道(名称)の基本構想が出来上がる。
- 1966年 - テレビ番組グリーン・ホーネットに出演のため、オークランドの道場はジェームズ・リーに任せ、ロサンゼルスに移住する。この頃、ダン・イノサントとの会話から截拳道の呼び名が生まれる。事実上の截拳道創始となった。
- 1967年 - ロサンゼルスに第3の振藩國術館を開設し、ダン・イノサントにインストラクターの免状を授けて指導を任せる。 オープンフィンガーグローブ、キックミット、シールド等の練習用具を考案・開発し、練習に取り入れていく。截拳道がアメリカの格闘技雑誌であるブラック・ベルト誌に紹介され、マスコミ初登場となる。以後、振藩功夫から昇華した截拳道は、ブルース・リーの名声とともに格闘家・武術家のみならず世界中の人々から注目を浴び、その評価は高まる一方である。
流派[編集]
ブルース・リーの意志の通り、ジークンドーに“流派”は存在しない。ただ、自身で組織を作る許可を得た者による団体、グループなどは世界中にあり、その指導方法に違いはある。たとえば、インストラクターの免状を受けたダン・イノサント(ブルース・リー自身から允許を受けた唯一の存命人物)が中心となった系統では、截拳道という名前及び思想・哲学を中心に置き、振藩功夫、カリ、修斗、シラットなども練習する。その一方で、最初にブルース・リーに道場を任されたターキー木村は、自身が伝授された“振藩功夫”を指導し続けている。一見対照的に思えるが、いずれも、名称や形式に縛られないブルース・リーの精神を正しく継承し、普及に努めている存在と言えるであろう。
関連人物[編集]
- ターキー木村:ブルース・リーのシアトル時代の直弟子であり親友。ブルース・リーに道場開設のきっかけを作った。
- ジェームズ・リー:ブルース・リーのオークランド時代の直弟子。
- ダン・イノサント:ブルース・リーのロサンゼルス時代の直弟子。イノサント・アカデミー代表。ブルース・リー認定JKDランクの最高ランク保持者。
- 中村頼永:ブルース・リー財団日本支部最高顧問、IUMA日本振藩國術館およびUSA修斗代表。
- 岡田准一:截拳道の指導員資格を持っている。
- リチャード・バステロ:ブルース・リーの直弟子の一人。IMBアカデミー代表。
- クリス・ウルフ:截拳道で活躍した女子プロレスラー。
拳法は好きで つい 鍛えることは心身にいいですよね
学んではいませんが中国拳法や日本拳法、古武術に興味を持つきっかけになったのも李小龍の影響が大です。
李小龍にはじまり李書文、黄飛鴻なども知り、武とはなんなのか、力とはどうあるべきかを考えさせられました。