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ノースアメリカン T-6 テキサン 練習機


T-6 テキサン (Texan;テキサス人の意)は、1930年代から1960年代にかけて使用されたノースアメリカン社製のレシプロ高等練習機。製造国アメリカの陸軍・海軍は元より、イギリスやイギリス連邦諸国で使用され、第二次世界大戦後は日本を含むさらに多くの国で使われた。アメリカ陸軍航空隊ではAT-6、アメリカ海軍ではSNJ、英連邦諸国では「ハーヴァード(Harvard)」と称された。

本機の元祖となったのは、1935年4月1日に初飛行したNA-16英語版である。低翼単葉のタンデム複座機という形態はこの時点で確立していたものの、主脚は固定式であり、機体も主翼以外は羽布張りであった。NA-16は、まずBT-9英語版の名称で量産が行われ、アメリカ海軍にもNJ-1の名称で採用された。さらにフランスや中国など数か国に輸出されており、日本にも2機が見本として引き渡され二式陸上中間練習機開発の参考となった。また、オーストラリアはCA-1 ワイラウェイ(ノースアメリカン社での呼称はNA-33)としてライセンス生産を行った。

このNA-16を元に、アメリカ陸軍航空隊の要求で兵装訓練用の武装を搭載可能とし主脚も引き込み式となったのがNA-26で、1937年に比較審査に合格し、当初は基本戦闘練習機(Basic Combat)BC-1として採用された。機体を全金属製とするなどの改良を施したBC-1Aはまもなく高等練習機(Advanced Trainer)に統合され、名称もAT-6となった。AT-6はアメリカ海軍にもSNJの名称で採用され、空母への着艦訓練用に着艦フックを装備したモデルもあった。また、大量のパイロットの育成を必要としていた英連邦諸国からも多数の発注を受け、早期から大規模な量産が行われた。この大量生産に対応するための工場がテキサス州ダラスに建設されたことから、テキサンの愛称で呼ばれるようになった。

操縦訓練だけでなく、対地攻撃、連絡、偵察、救難などに幅広く用いられ、1942年7月にはメキシコ沿岸でドイツ潜水艦の撃沈も記録している。

第二次世界大戦の終結後は、多くの機体がT-6Gとして再生され戦後の標準練習機となったほか、実戦でも活用された。朝鮮戦争では、後席に陸軍の偵察員を乗せて前線の敵後方に回り込み、低空から戦闘爆撃の誘導を行う「モスキート・ミッション」にも従事した。この任務には当初T-6Fが使用されたが、途中からT-6Gを改装したLT-6Gに交替した。フランスに供与されたT-6Gは、翼下にガンポッドやロケット弾を搭載しアルジェリア戦争で対地攻撃に用いられた。他にもポルトガルの植民地戦争や印パ戦争では1970年代に入っても攻撃任務に投入されていた。

敵国であったドイツや日本にも提供され、最終的な使用国は40以上、生産機数は各型合わせて15,495機に及び、一部の国では1990年代に入ってもまだ現役にあった。保存されている機体や民間に払い下げられた機体には現在でも飛行可能なものが多く、海外のエアショーではしばしば飛行する姿を目にすることができる。また、リノ・エアレースでは本機のみが参加できる部門がある。

自衛隊のT-6[編集]

日本では、1955年1月から自衛隊への供与が開始され、T-6D/F/Gが航空自衛隊に167機、海軍型SNJ-5/6が海上自衛隊に48機引き渡された。

航空自衛隊では中間練習機として使用されたが、前輪式の初等練習機T-34と、高等練習機のT-33や実用機の間に尾輪式の本機の課程が挟まるのは非合理的であり、設計自体もさすがに時代遅れとなっていたため1960年代には後継機のT-1と交替した。一部は航空救難群に移管されて救難機として使用されたが、それも1970年までに退役し姿を消した。退役後所沢航空発祥記念館にて0099号機が屋内展示されている。

海上自衛隊では初等練習機として使用され、1960年代にKM-2との交替を終えた後も数機が連絡機としてしばらく使用されていた。

浜松広報館のT-6F#011号機は2015年現在、国内唯一の飛行可能機である。エンジンは常にオイルを入れており、年に数回エンジンの始動を行っている。しかし、自衛隊でピストンエンジン機の操縦資格が取得できたのはKM-2が退役する1989年までであり、合法的に操縦できる隊員は次第に少なくなっている





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