鬼にならずんば、小石さえ拾う事無し。
- カテゴリ:日記
- 2016/04/15 21:17:01
歴史に詳しい人なら大久保利通という人間を知っているかもしれない。
ただ彼の最後はあまりにも無残な暗殺という形で最後を終えた事であった。
この事が、ボクの心に謎を残した。
大久保利通の生きてきた経緯だけ見れば・・・こんな無残な殺され方をされる理由が分からなかったのだ。
だが、その事に関して詳しく書かれている歴史書を立ち読みした。
そのおかげで長年の謎は解けた。
彼は鬼の道を歩んでしまったのだ。
西郷隆盛たちが、韓国と対等な和平交渉をしようとしていたのを手を回して取りやめさせて、
欧米諸国が日本にした事と同じ事を(弱い国に不平等な条約を押し付けた)やったのだ。
そう、この同じ事をやるために多くの血が流れたのだ。
大久保利通は遠隔的に西郷らを死に追いやった政治家として恨まれていたのだ。
他人の屍の上に築いた成功は鬼の道という。
鬼になれば、鬼に喰われる。
鬼になるなら自分も同じ殺され方を覚悟せよ
そして鬼の道には何も落ちていない。
小石さえも無い。
これは比喩表現では無い。
ほんとに何も無いのだ。
そこには何も残らないのだ。
それに比べ、西郷隆盛らには、その志を受け継ぐ人間が多数いた。
きっと大久保利通には眩しかったのだろう。
そんな彼らが。
自分も何か。
自分にも何か。
お国のために。
天皇に誉められたい。
あの世で母に褒められたい。
そういう幼い望みがあったのではなかろうか。
だが、彼は結果として仲間の策を潰し、同僚を蹴落とし、やった事は弱いモノいじめ・・・挙句の果て、刺され、斬られるという歴史に残るほど無残な暗殺を実行された。
鬼の道を歩んでしまった彼が、もしも目の前にいるならこう言いたい。
「ボクも鬼の道へ道を踏み外してしまう愚か者です。どうかこれから一緒に人生を歩んでください。」
仏教の教えを自分は信じている。
かつて一善無し。
そう、たった1つの善も無いのだ。という驚くべき事実。
それもそれを口にしたのはお釈迦様。
私は善など1つもした事が無い。
そう、おしゃったのだ。
これは読んでも分からないだろう。
お釈迦様と言えば善の塊のような方でしょう。
それが1つも無いなんて・・・そんな事言うわけないじゃない。
そういう反論も当然ありそうだ。
分からないかもしれないが。
人間は自分の意志で善を行っているわけでは無いのだ
それは体験しないと分からない。
言葉だけでは伝わらない。
あなたが善を積む時
あなたには間違いなく見えない力の恩恵を授かっているのだ。
それは体験してわかってもらいたい。
お釈迦様が言いたかった事は
お釈迦様ほどの人でも・・・自分の意志だけでは善など1つもできはしないのだよ。・・・そう言われている。
それほど人の意志は弱くもある。
ゆえに大きな見えない力に頼れよ、すがれよ。
大いなる力
それは間違いなくある。
熊本県では地震が起きました。
死者のご冥福をお祈りします。
かつ、震災の早期復興をお祈りします。
話がそれましたが。
大いなる力。
「生かして頂きありがとうございます」
この真言を唱えてください。
そう、まるでボタンを押すように。
削除キーを押すのに感情は入りません。
文字を消すのに感謝しながら消しますか?
ただ削除キーを押すだけでしょ。
ただ唱えればいいのです。
「生かして頂きありがとうございます」
この真言を唱えるというアクションは
何かを消します。何を消しているのかはボクたちには分かりません。分かりませんが・・・ボクたちが削除キーを押して文章を修正しているように何かを修正しているのかもしれません。何かをただ消しているのです。
ただ繰り返し唱えるのです。
まるでボタンを押すように。
ボタンを押して感じてみてください。
自分の呼吸を。
身体の動きを。
筋肉の動きを。
指の動きを。
パソコンを見る目の動きを。
そういったモノを感じてください。
「生かして頂きありがとうございます」
そう、唱えた道は人の道です。
鬼の道へついつい落ちてしまうのが、人間です。
そこには小石さえありません。
だから人の道へ戻って来てください。
「生かして頂きありがとうございます」
あい