Nicotto Town



嗚呼 満蒙開拓団


前のブログで、中国残留孤児ではないかと思われるお年寄りと、電車で乗り合わせたと書きました。

どんな経緯があって、日本人の子どもたちが中国に残されてしまったのでしょうか。言葉も喋れず、中国人にしか見えない姿で、肉親を求めて帰ってきた方々…。
わたしは、他人事のような、距離感を持って見ていました。

わたしより遥かに年上で、初老と呼んでもいいほどの皺と日焼け。
これが置き去りにされた3歳や5歳の子どもの姿であれば、涙なしにはテレビ画面を見れないほど、心をさらっていったことでしょう。
中身は心細いままの子どもに違いありません。年月とは残酷です。
その残酷な運命を、どうして背負わなければならなかったのか、現在と過去をこの
『嗚呼、満蒙開拓団』ドキュメンタリーは教えてくれます。

背景を簡単に説明すれば
昭和恐慌の中、東日本の農村の生活は困窮していました。国策として「満州移民計画」が登場し、(特に長野県が多い)夢を抱き、たくさんの家族が中国、満州へ、のちにソ連の国境近く、内蒙古まで渡っていきました。

軍部、関東軍ですが、将来の対ソ戦略を考えての計画でした。
前線に近い地域に開拓団を配置すれば、インフラ、道路や通信網が整備されるし
馬や食糧も調達可能、加えて、兵力補給も可能となると考えたのです。

敗戦の色が濃くなっても、日本からの移民計画は続行され続けました。
現地に到着して、荷物を解く間もなく、ソ連軍の爆撃に遭い、何も持たずに逃げた家族もいます。一般市民は「関東軍が守ってくれる」と信じていました。
戦況悪化で、父親である18歳~45歳の男性は招集されました。
残されたのは女子供、老人です。
ソ連軍が侵攻してくると、関東軍は真っ先に逃げました。
開拓団の人を残してというより、人柱にしたのです。
関東軍は、ソ連侵攻の情報を、開拓団に教えなかったのです。

突然の爆撃で、逃げまどい、初めて、関東軍が逃げたこと、ソ連が攻めてきたことを知りました。
女性と子どもたち、年寄りと呼ばれる祖父母たちが、生き残こる為に、遠い遠い日本へ、徒歩で目指したのです。

飢えや病気、寒さでバタバタと死んでいきます。ソ連軍に見つかってはならないと
泣きやまない赤ちゃんを手に掛けたお母さん。
生き恥をさらすまいと集団自決した人々。
痛ましい事実がインタビューで語られていきます。

そんな中で、生き倒れで置き去りにされた日本人の子どもを、見るに見かねて助け育てた中国人がいました。本来なら、見殺しにされても仕方がないことを、日本軍はしてきました。

奴隷のように苛めぬかれ、悲惨な子ども時代を送った人もいます。
「結婚するなら必ず日本人としなさい。いつか帰れる時が来るのだから」
と賢明なアドバイスを受け、大事に育てられた人もいます。
 
監督がこのドキュメンタリーを撮るきっかけは
中国人が作った、日本人の為のお墓があることを知ったことでした。

ハルピン郊外、方正(ホウマサ)にある「方正地区日本人公墓」
方正に住む残留夫人となった方が、この地まで逃れてきたが、厳しい冬を越せず、亡くなったたくさんの日本人の遺骨を集めて、墓を建てたいと願い出ました。
「一般日本人も日本軍国主義の被害者である」
周恩来の指示でした。
文革の嵐の中でも、日本人公墓は守られてきました。

いつの時代も、国という名で犠牲になるのは弱い人達ばかりです。



『流れる星は生きている』藤原てい著
戦後最大のベストセラーになりました。26歳のていさんが、長男が5歳、次男が2歳、長女が生後1か月を連れ、満州から朝鮮半島を渡り、日本に辿りつくまでの
壮絶な物語です。

身内にも分からないほどの姿で帰国、その後、死と隣り合わせの闘病生活をされ
子どもたちへの遺書のつもりで書いたそうです。
将来、人生の岐路に立った時、こんなにまでして守った命を忘れないで欲しいと
いう思いからです。

次男は数学者、『国家の品格』を書かれた藤原正彦さん。
当時の記憶はないそうです。

長女、藤原咲子さんは母のリュックに詰められ、眺めた満天の星を覚えているのだそうです。そして、12歳で母の本を読み、兄達よりも自分は大事ではなかったと
思いちがえ、終世、母との愛に苦しみました。
『藤原ていの娘に生まれて』に書かれています。

母の最期の言葉は 「早く日本に帰ろう」 だそうです。
凄惨な記憶は、死ぬ間際まで、離れることはなかったのですね。。

読みやすく文庫にもなっています。
逃避行がどれほど過酷なものであったか、本当によくわかります。
是非、一度、機会があれば読んでみてくださいね。。



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2009/09/20 20:51
南の島のヒロさん★コメントありがとうございます。

ドキュメンタリーを観て、まず思ったことは、間に合った、です。
戦後64年ですか。生まれたばかりでも、老いにさしかかっている年齢です。
肉声を聞くということは、読むことよりも遥かにインパクトがあります。
今もって消えることのない痛みを強く感じるからです。
無念、ですね。
その声をフィルムに遺すことができて、少しでも報われることがあるのかなと
思ってみたりします。
『花と兵隊』でもそうでした。

ヒロさんを捕まえて、話したくて仕方なかったのでしょうね。
理解してほしかったんですね。
自分の立場や、仕方なかったことを。
報われなかったり、納得のいかないことは、
たぶん、歳を追うごとに大きく膨らんでいくものかもしれませんね。
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2009/09/20 20:41
亀吉さん★コメントありがとうございます。

わたしもどこかで読んだ記憶があります^^

最近読んだ『沈黙を破る』土井敏邦著 ドキュメンタリー映画の監督でもありますが
元イスラエル兵が語る占領の実態で、ブログでも紹介しました。
本のあとがきで、学生時代の彼に大きな影響を与えた 富永初子さんがいらっしゃいます。
原爆被害者であり、二十数年前、七十歳であった富永さんは、癌や様々な病に苦しみ
白内障で視力もほとんど失っていたそうです。
それでも、精力的に核兵器廃絶署名運動に参加しておられました。

広島の日赤病院で治療を受けている時、被爆し祖国へ帰った韓国人被爆者が治療を受けにやって来た時
すくっと立ちあがり
「わたしは被爆者ですが、日本人の一人としてみなさんに大変ごめいわくをおかけして、ほんとうに
申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げたのです。

アジアの歴史博物館で感じた、わたしの中の違和感とは遠いものです。
加害の歴史というものを、しっかりと認識されているからこその行為です。
そのお母さんも戦争というものの意味をしっかりと、身の内に理解しておられたのですね。

米国は未だに原爆に対しての認識がありません。
だからこそ、他国の横暴になり、9・11に繋がったのではないか、
ふと、今、そんなことを考えてしまいました。

ドキュメンタリーを見始めたのは、この1年半前くらいでしょうか。わたしもかなりの初心者なんです。
それでも、情報を集めようと思えば、そこそこ集められるのだなぁと、
知れば知るほど闇は深いし、絶望すら感じる出来事も多くあります。
知らないと、語り合うことすらできません。
考えることも。
世界は繋がっていて、いつかどこかで、砂粒くらいの重さかもしれないけれど
何かの役に立つ選択をできるかもしれない。
知識の引き出しは多ければ多いほど、選択肢も対処法も広がります。
たとえ、ささやかでも、知ることをやめてはいけない気がね、するんです。
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2009/09/20 19:50
さきもりさん★コメントありがとうございます。

南京大虐殺については、いろんな情報や憶測が飛び交っています。
一番いけないことは、これを政治的に利用しようとする動きでしょうね。
真実はどうであったのか、それを知る妨げになっているのではないでしょうか。

南京に出兵した年配の方とご一緒したことがありました。
何でも、贖罪を兼ねて南京に桜の木を植える活動があり、誘われたが
わたしは行けない。よく、大きな顔をしていけるものだと、言っておられました。
その人に会った時、第一声が「僕は右翼です}
『…!』と街宣車が頭の中を駆け巡りました。が、精神的に愛国者という意味でした^^;
軍国主義教育世代の名残があるのですね。

本当に何があったのか、知ることが日本と中国、相互理解のうえで重要なことのように思います。
それを認めたうえで、現在起こっている人権侵害も共に考える道筋にはなりはしないか。。。
いろいろと難しい国だと思います。
 
藤原ていさんの夫、新田次郎さんも気象官だったそうですね^^
楽しみにしています^^

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2009/09/20 11:46
こんにちわ。

こちらにも色々な話が残ってますわ。
去年、放映されたドキュメンタリーでは、ラグナ湖のほとりの村が、日本側、ゲリラ側に二分されて争った事実を取り上げてましたわ。

また、ワテの住んでる島のある家に伺った時は、そこのお祖父さんがワテを捕まえて、昔の話を散々にするんです。 このお祖父さんは、日本側について働いたから、戦後に酷い目にあったと言う話ですわ。

お年寄りの中には、まだこうした記憶が残っていますね。 表面は、非常に優しい人たちですけどね。
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2009/09/20 11:18
昔読んだので、全部覚えてないのですが、
フィリピンから来た女性が、結婚予定の日本人男性の家に挨拶に行った時です。
男性の母親が、息子の連れてきた女性がフィリピン人だと知ると、
「過去の日本が、あなたの国にした事に対してお詫びをします」と、土下座をしたそうです。
もちろん、そのフィリピン女性は、戦争のことを知っていましたから、
その母親の行動に、強く心を打たれたそうです。
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2009/09/20 10:19
ども、実家のさきもりです。
中国、韓国アレルギーの強い オイラでも、

「残留孤児の方々の面倒を見てくださった」 史実は

さすが、大陸国 と思いますね ありがたいことです。

どうしてもひねくれた見方をしてしまいますが、

「軍国主義の被害者」なのは、残った日本人や盾にされた日本人だけではなく、

何も知らずに戦争に参加させられていた、一般市民すべて。

かてて加えて、中国のかたがた全て。 #南京の大虐殺とか言いますが
                  #あのかたがた、軍服着せられてあったそうです。
                  #軍服を着ている人たちは、軍人とみなされ
                  #たとえ無抵抗でも、戦争に加担している人と
                  #されます。(第一次大戦後:ジュネーブ条約だったと思います)
                            ↑戦争法の提起で、現在も生きているはず

戦争とは、如何に残酷か、如何に馬鹿げているのか、考えさせられますね。。

PS 家の母方の祖父は、南方海戦に出てます
    父方の祖父は、気象官として、特別任務を帯びていたそうです。
     この辺のことも、そのうちブログに書こうかと思っています m(_ _)m

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2009/09/20 00:15
yukinkoさん★コメントありがとうございます。

極限に追い込まれた時、どうするだろうか。
これはもう、その時にならなれけば、自分はわからない、としか言えません。
ただ、悲惨な真実を人とはこうなるのだと、目を背けずにその場その場で
考えていたとしたらどうでしょうか。
まず、自分が生き残る、子どもたちを守る、みんなそうだと思います。
極限の時こそ、人というものが試されます。
凄惨なことに手を貸す抑止力になりはしないかと、たぶん、願いにしかなりませんね。

正義感が強く、真っすぐなyukinkoさんだからこその問いですね。

国家とは本来惨いものです。
指導者の本質によっても、あらゆることは変わってきます。
指導者を望んだのも時代、その時代に生きる多くの人です。
特に現代は、情報網が発達し普通の人でも、あらゆることを知ることが可能です。
わたし達が何を望むのか、何を犠牲にするのか、それが時代の空気をつくり、指導者を選びます。
個として、目先の利益に動く結果は、あらゆる場面で実証済みなんです。
だからこそ、そんな状況にならない為に、真実や歴史からたくさんのことを知り
個としての意見を持つ、そんな人が増えていくことで、世界はよくなりはしないか。。

どこかで、人間は変われねばなりません。
人は変えることはできなくても、自分は変われるます。
まずは自分から、ということでしょうか。。。

イジメはね、本当に浅はかですね。。
人種に関係なく、もう個人の問題ですね。
yukinkoさんはちゃんと庇ってあげるので、嬉しくなります。

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2009/09/19 23:48
阿衣さん★コメントありがとうございます。

全く同感です。見事なコメントですね。

歴史というものは過去ではなくて、現在を見る作業であると
わたしも思うのです。
人間が同じことを繰り返すのは、過去に学ばないからです。

被害者が弱者であり、声が小さい場合、押し潰され、無視されれば
悲惨な未来を繰り返すに違いなのです。
それを現在の格差社会などに繋げて考えられる視点は素晴らしいと
感心いたしました。

すべての事柄は、ある意味で繋がっているのです。
真実を、特に闇に消されようとしている真実を知ることは
現在、未来への貴重な提言となる、そう信じたいです。

この作品は2008年キネマ旬報文化映画1位に選ばれています。
中高生の歴史教育教材に使われるべきです。

阿衣さんは知的な方ですね。幾つかのコメントを読ませて戴いて
そう実感いたします。
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2009/09/19 23:31
南の島のヒロさん★コメントありがとうございます。

そうですか。お身内がいらっしゃったのですね。
わたしの親戚にも、ヒロさんの叔母さんと同じく看護婦見習いで行っていた女性がいます。
真っ先に関東軍は逃げたわ、と洩らされていたのを聞いたことがあります。
『岸壁の母』舞鶴は多くの人の想いが込められていたのですね。

引揚げ船の往来は戦後13年、国交断絶の為に日赤などの民間レベルで
続いていたそうですね。
その後、政治的衝突が起こり、全く途絶えてしまったそうです。
未帰国者は約1万1千人(半数は死亡と推定)
戦後、見事に経済発展を遂げ、先進国の仲間入りをした恩恵を
何も受けずに過ごした人々がいるんです。
それを忘れてはいけない、というより知らなくてはいけない、という意味で
このドキュメンタリーは悲惨の映像はないものの、
忘れてはいけない過去、いえ今に続き悲劇を教えてくれたように思います。
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2009/09/19 23:04
亀吉さん★コメントありがとうございました。

南の島で過去に日本軍がしたことを責められると、もう日本人としては黙って聞くしかない、と
ブログで書かれていましたね。とても印象深かったのです。

わたしは訪ねた国の歴史博物館には足を運ぶ方で、シンガーポールやマレーシア、中国、どれも
日本軍の爪痕が残されていました。その展示室に誰かいたことはありません。
居心地の悪さを感じながら、罪悪感が湧いてくるわけでもありませんでした。
どこか、遠い他の国のような感覚があるんですね。

ドキュメンタリーなどを足掛かりに、自分なりに調べていくと、この感覚が
薄れてきて、繋がっていく気がするんです。
シンガポールの歴史博物館ガイドのお姉さん、大声で日本軍の悪行を説明してました。
わたしが近づいていくとボリュームがダウンしていくんです。
彼女もわたしも当時とは直接何の関係もない、お互いよくわかっているんです。そうだもの。
でも、もし、被害者の親族に問い詰められた場合、
わたしはどうしたか?
素直に日本人として頭を下げることができたか。
自分に対しての疑問です。

今回『花と兵隊』を観て、素直に頭を下げられるような気がしました。
真実を知ったせいかもしれません。

わたしもちっぽけです。
これは常に感じています。
あらゆる巨悪を知ったり、虐げられた人々を知ったり、
何ができるかといえば、たぶん、何も…。
とても辛いものです。
いつもね、いろんな支援サイトの募金を見ながら、悩みます。
限りがありますしね。
悩ましいです。

亀ちゃんはそんな中で、自分が何か出来る場所を見つけているのです。
素敵なことですよ。
わたしもわたしなりに、ささやかですが、やり始めるかもしれません。。
本当にささやか。。
でもね、やっぱり大切だと思うの。
たとえ抱えきれなくても、無残であったとしても
それが真実であれば。

先日ある場所で「無知であることは、無垢ではない」
強くおっしゃる老先生の言葉が胸に染みました。
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2009/09/19 22:36
「中国人だ」と言うだけで、最近の中国産の餃子の事などで、いじめられてる小学生が近所にいます。私は、「日本人の昔を勉強してこい!」とイジメの現場に会ったら言ってきましたが、今日、また、素晴らしき中国人の話をここで知りました。

「ほたるの墓」についてのレスも読みました。あれが、戦争という過酷な状況に追い詰められた者の象徴みたいなものかもしれませんね。私が当事者だったら、と思うと、やはりまずはわが子をと思うだろうと思い、個人であれば、その保身、博愛主義でいられない事が悲劇を生むだろうと。
個人が、国家に変わった時も、結局は同じなのかなって、感じたりもするのですが、浅はかですかね?
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2009/09/19 22:06
KINACOさん★コメントありがとうございます。

わたし自身も、コメントをつけるのは難しいだろうなぁと感じています。
重く暗い内容を続けて書いているので、辞めようかと迷いました。
思考錯誤中です。
ただ、ドキュメンタリーを観て、何かを感じた以上、稚拙でも書いておかなければいけない
そう強く思ったのです。

書く以上は自分なりに咀嚼するわけです。
何も知らないわけではない方ですが、こういうことに触れると自分の無知さを自覚します。
偉そうに書けるのかとか、当たらず触らずの方が楽なのにとか、思いつつ
重くて固い物を爪で削るささやかで、ネガティブ的な作業をします。
わたし自身にとっては大事な作業だと、どこかで思っています。
皆さんにとってはどうか、
やっぱり大事だと思うんです。
歴史の中の犠牲者でありながら、訊かれることのない声、真実を伝えるということ。
真実はやっぱり惨いものです。
本来なら、こういう事実は学校で教えなければいけないことですね。
このドキュメンタリーは中高生にもっと観て欲しい気がします。

日本人の歴史の中で、戦前と戦後に分断があります。
なぜ、戦争はかくも遠いのか、それは自分への問いかけでもあるんです。
ドキュメンタリーを観ていくうちに、それが、少しずつ埋まっていく感覚を
僅かですが実感しつつあります。
いつか、お話できることを。
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2009/09/19 21:33
歌穂さん★コメントありがとうございます。

中文の文庫になっていると思います。図書館でも必ずあると思います。
『藤原ていの娘に生まれて』は二年ほど前の、比較的新しい単行本です。
本屋で見かけ、字が大きいので^^;立ち読みできる~と
読み始めたところ、不覚にも大粒の涙が溜まってしまい
あわてて本棚に戻したのです。
実はまだ読んでいなくて、図書館で探すか、購入するか健闘中です。

『流れる星は生きている』は文学的にも評価が高い作品ですが
『藤原ていの娘に生まれて』は酷評もあります。が、わたしは一人の娘としての
葛藤を書かれた点で、個人的にとても惹かれています。

是非とも読んでみてくださいね。
当時、いかに過酷な脱出であったのか、本当によくわかります。
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2009/09/19 21:24
かりんさん★コメントありがとうございます。

周恩来さんの一般市民は被害者であるという考え、それはあっても貫くことは
地位が高くなればなるほど、実践するのは難しいものです。
本当に胸に響く言葉です。
自国の文化徹底的に破壊した文化大革命の嵐の中で、日本人公募は土地の人に守られたこともにも、
頭が下がる思いです。

わたしは幸運にも、いろんな国に出かける機会があります。
人種や宗教、言葉の違いがあっても、基本的なライン、悲しみや喜びは同じだと
接すれば接するほど感じます。

ちょっとしたお遊び感覚で迷い込んだサイトでした。
そこで、たくさんの人と楽しいこと、また有益なことを
お話できたことは、本当に嬉しい誤算でした。
かりんさんの持つ、真摯で優しい眼差しは
たくさんの知識を正しい位置づけで、消化される力を持おられます。
かりんさんに出会えたことに
感謝です。こちらこそ。
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2009/09/19 03:34
過去の贖罪は当時辛い経験を強いられた方々がすべてこの世を去ったとしても
終わることはないでしょう
残留孤児の方々にも家族があり、その過去を嫌でも引きずり受け継がされると思います

世界と比較して富裕国になった今でも日本にはさまざまな形で弱者は存在します
今後急速に進むだろう高齢化と少子化は更に新しい格差を生むことになり、その格差は拡大する
ほんの数年先の日本の未来が明るくないことを想像するのに難しくはないのです

才能ある人の力で隠された過去がほんの少し表に出てきた
小さな存在でも、力がなくても
そこから目を背けずに学びとっていける何かがきっとあると阿衣は思うのです
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2009/09/18 18:57
ワテの身内にも、ハルピンに居た人が居ますんやわ。

今、北朝鮮の一部である清津の市長で清津の旅館組合理事長だったのも、ワテのお祖父さんの弟ですわ。
幸いにして、満蒙開拓団と同じ運命を辿ってまへんけど、先の、ハルピンに居て、帰れなくなった身内(当時、既に陸軍病院看護婦)は、そのまま現地に残り、同じように帰れなくなった日本人と現地で、結婚し、中国からの復員船、興安丸の最後の便で帰って来ましたわ。

この船で、帰ってくるはずの身内を待ち続けていた母親と同様に、ワテの叔母(看護婦の母)は、毎回、舞鶴港に行ったんです。 こうした人のことを歌ったのが、「岸壁の母」ですわ。
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2009/09/18 16:16
もうね、もうね、色々な事を教えていただいたり、知ったりするじゃないですか。
たまらないのですね。過去のことや、現在の戦争なども含めて。
フィリピン、中国、ビルマ・・・ 色々なことがあったわけですよね。
その全ての事実を知ることは、とても大切ですが、私は、小さな力しかない。
せめて、自分の島で出来ることをしていこうと、今は、考えているのです。
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2009/09/18 13:12
コメント自体が出来ないんです。
いろんな思いがあるんです。
私の中にも。。。
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2009/09/18 01:15
『流れる星は生きている』は本なのですね。
探して読んでみたいと思います。
『藤原ていの娘に生まれて』も気になりました。
一緒に探してみたいと思います。
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2009/09/17 23:46
黒猫手毬さん、こんばんは。
>「一般日本人も日本軍国主義の被害者である」
……すごく、胸に響きました。
国を超えて、文化の違いを超えて、嬉しいとか、悲しいとか、
そういった感情は、きっと共有できる、そう思わされました。

多くの戦争の傷跡、これだけの年月が過ぎても、まだ全てが癒えてはいないのですね。
何も知らず、悠々と暮らせているからこそ、知りえない真実。
こうして、たくさんの方のお力でわたしが知ることができたこと、
ホントウにその一つ一つのめぐり合わせに、感謝です。




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