Nicotto Town



今月の映画(修整&追記)

ということで、今月の映画を見てみました。


いろいろ見たいものはあるのですが、今回は後であんまり見なさそう&大学時代の友人(後輩)が突然勧めて来た映画、ということで、森達也の「FAKE」を見てきました。


森達也という監督は、もう20年近く前に、オウム真理教のことを追った「A」、続編の「A2」というドキュメンタリーでそっち方面では有名になりましたが、その後は単独監督としては全く映画を撮っておらず、今回15年ぶりの作品です。テーマは、例の佐村河内さんのゴーストライターの件ですね。

ちなみに「A」について、というか20年前に見た「A」の上映会に感じた私の強い違和感については、ここではない私の本当のブログにて大昔に書いたような気がするのですが、もう忘れませしたw

で、一昨日その後輩からメールが来て、超面白いというので昨日見てきました。
渋谷にあるユーロスペースという映画館ですが、21:00上映開始なのに、結構な人の入り。まあね、都内で2か所しか上映してないしね。




結論

はい、面白かったです。



びっくり仰天のラスト、そして寸止めで終わってしまう強烈なモヤモヤ。
いや、でもそれでいい。抜群でした。
考えたら、途中でそのラストへの伏線は1回だけあったな。なんか言葉の使い方が変だと思ったんだが、そういことかwまあね。ていうか、やっぱりそこそこ聞こえてるんだろうねえ・・・・・・

これ以上はネタばれなので、いちおう書きませんが。


で、見終わって帰宅中に色々関連のものをWebで見ていたら、神山典士がFAKEを見た感想の記事をWebで見つけました。神山典士は、佐村河内事件をスッパ抜いた本人です。

映画そのものや森監督、あるいは佐村河内事件そのものについてとは別の問題として、神山さんがそこで言っていることが間違えているとは思いません。思わないがしかし、この人は根本的にジャーナルとドキュメントの違いが分かってないんだなと思いました。別の言い方をするなら、本人の言葉が図らずも露呈しているとおり、自分はエビデンスの積み上げでしかモノが語れないと宣言しているようなものでした。





ドキュメントには、証拠や中立性なんて必ずしも求めてないんだよ。




ウソ偽りはあってはならないが、しかし強いドキュメントには、切り込む力、切り込むための仕掛けが欲しい。事実を書き出すことと、事実に切り込むことは違うんですけどね。そしてジャーナリズムとドキュメンタリーの現場では、そのせめぎ合いのなかで苦しむものなんだと思うのですが。結局ファクトを並べ立てて、暴いて、責めて、ニヤニヤするだけかと。見苦しいな、こういうのは。

それにしても、佐村河内さんの奥さん、いい人でした。ダメな人なのかもしれないけど。でも森監督も、それが撮りたかった、二人が一緒のところを撮りたかったって自分で言ってますしね。


そう、ジャーナルに奥さんは不要だけど、ドキュメントに奥さんが必要なのですよ。佐村河内さんを擁護しようなんて、これっぽっちも思いません。森監督だって、そう思っている。だって、題材だもん、彼は。残酷だけど。その意味で、ドキュメントはどこかでエンターテイメントだしね。

そうなると微妙ですよね。ワイドショー的な自意識を満足させるためのジャーナリズムと、佐村河内さんとその奥さんを、題材として切りつけるドキュメンタリーの差は何かって。

でも僕は、結構そこに明確な差があると考えてます。すごく単純。





そこに、愛があるのか。




それしかないと思います。
別に、森監督は佐村河内さんを全然、まったく擁護してません。もしかしたら、こいつクズだなと思っているかもしれません。でも、例えそうであっても、佐村河内さんへの愛は感じます。そして、裏切られても、信じ寄り添う、ある意味ではダメな奥さんにも。

極論、佐村河内さんが詐欺師でもペテン師でも、人間のクズだったとしても、そんなことは森監督にとってどうでも良いし、ドキュメンタリーとしても、そんなもんはどうでもいいのです。それを一つの生き様として受け取り、憎しみや悪意ではなく愛を以て切り込み、そしてお前はどうなんだと観客に問いかけ、問いかけっぱなしで去っていく。しかもそのプロセスをひとつのエンターテイメントとしても成立させて、最後まで客を飽きさせずに引きずり込むこと。




ドキュメンタリーってのは、そういうもんじゃないの?




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