小松左京の作品について
- カテゴリ:小説/詩
- 2017/02/04 09:18:09
戦後保守系リベラルの一派と評すべきかは分かりませんが、
小松左京の各長編が提示していた問題の数々は、21世紀の現代、
ますます大きな意味を持っているという感を深くしています。
『果しなき流れの果てに』という作品の主人公は、存在の多様性の持つ可能性を信じ、
時間遡行能力だけを武器に、垂直進化と選別を司る絶対者に抗う一種のテロリスト。
テロリストは敗北します。これを読むと、テロというものの一面に共感せざるを得ない。
『継ぐのは誰か?』は現生人類が次世代新人類から挑戦を受ける話。
今度は敵がテロリスト、主人公達は融和を図った結果、偶然で彼らを滅亡させてしまう。
これも象徴的な話です。民族主義は常に外からの迫害と弾圧を必要とするのです。
『日本沈没』で避難計画を陰から支えた政界のフィクサーは半島の出身者でした。
雅、侘び、謙譲の美徳、曖昧さ。果たして和の文化の起点はどこにあるのか。
混淆物としての国民が国土を失った後、依って立つ「くに」とは何か、分からない。
『復活の日』では極右のガーランド将軍が配備した核兵器が世界を救ってしまう。
国際融和派の良識的な大統領は執務室で惨めに泣きながら死ぬだけでした。
ある意味酷い話ではある。でも太平洋の向こうを眺めると笑うことはできない。
『日本アパッチ族』では少数民族によるテロが成功し、内政重視の新国が誕生する。
共和思想を理念とし、食料自給率を向上させ武装を進め、集団合議制を採用する。
お先真っ暗の未来が保障された国ができたという結末はハッピーエンドだったのか。
『首都消失』では中枢を失った国を支える人物像が保守系リベラル一色。
小松の魅力的な政治家像には、カトリックに通ずる自己犠牲の精神が感じられます。
報道担当者の「メディアは中立的情報伝達に留まるべきだ」という一言も重い。
『見知らぬ明日』は冷戦期に現れた宇宙人の攻撃で一致団結しかかる世界がテーマ。
でも小松としては結末が弱いと思う。宇宙人が来ても人類がまとまるわけはない。
凶悪な宇宙人と闘いながらも政争や小規模紛争は平行して続くのです。
ポリティカルフィクションの側面も強い作品群なのだ、と再認識します。
むしろ各種の危機管理について早い時期から警鐘を鳴らした人とも言えるかも。
超越者や細菌や地殻変動、宇宙人を何に置き換えるかは簡単に思いつくはず。
メディアや情報の意味について小松はレムと似た地点に着地していると思います。
等価に充満する情報を適確に解釈できる知性と理性の向上が人類の可能性である。
小松はその可能性を信じ、レムはどこかで達観してしまった。私はレムに共感する。
彼のどの作品をとっても、現代の問題に直結する有意義な議論ができると信じます。
『さよならジュピター』『虚無回廊』『結晶星団』『エスパイ』……名作メジロ押し。
デビュー作『地には平和を』を読み直してもいいかも。来たるべき日の預言として。
ご無沙汰しております。『シン・ゴジラ』は梗概しか知らないのですが、日本のサブカル史的には納得できます。
絶対悪や絶対の敵に対して一致団結するというのは幻想に過ぎないのだという思想の発露は、
日本の60年代SFやテレビマンガ黎明期にも繰り返し出てきたテーマの一つみたいに感じます。
まるでシン・ゴジラみたいですね。
いや、シン・ゴジラの源流に小松があるというべきか。
小松が純文学ではなくSFを選んだのは、種としての人類を描くためだという話を読んだことがあります。
化学も政治も経済も人類という種の産物であり、細菌がアルコールを作るのと大差はない、とも言えます。
そうした大局的見地から俯瞰している点が魅力です。作品にヒーローがいないことも特徴的だと思います。
虚無回廊とかゴルディアスの結び目とかは何度も読み返してるんですが。
小松左京の作品はいつ読んでも古臭さがありません。
個人的に好きな作家だから、かもしれませんけれども。
科学の視点からすると彼の思考は21世紀のもっとはるか先まで、
見通していたかのように思います。
そしてSFという手法に侘び寂びの世界観をのせて見せ、
地理・歴史を絡ませた作品群。
理性と知性についてなら、「神への長い道」が個人的には外せません。
内容はタイトルのまんまかも(^_^;)
いかん、本棚の小松左京専用棚を見てたらあれもこれも読みたくなっちゃった。