ゴタぴょんの日記 2013年11月1日 Ⅰ
- カテゴリ:日記
- 2017/09/13 06:38:12
11月1日(金)
【幸遊庵。午前10時】
ツアー開始時刻は、10時30分に変更になりました。
きょうの日程は、
幸遊庵 ~ 二条城 ~
京都ハンディクラフトセンター ~ 三十三間堂
~ 高島屋 ~ 幸遊庵
【幸遊庵を出発】
幸遊庵は、祗園甲部にあります。
甲部歌舞練場の東、安井金比羅さんの西。
安井金比羅さんは、縁切りの神でして、
自主神社の縁結びの神様と、セットで、
お参りすれば、とても便利。
幸遊庵から西へ。建仁寺で、右。
ここから祗園、花見小路が続きます。
四条通を西へ。堀川通で、北。
二条城は、この堀川通を北に1キロほど
行った西側。
リッチェ
ルさん : Lert's begin by Nijo Castle.
きょうは、二条城を先に
行きましょうね。
ゴタ : Yes, let's.
行きましょう。
関ヶ原の合戦後、徳川家康は、
天下を示すため、京都に城を構えます。
おそらく、大阪城を攻めるための、
軍事拠点だったのでしょう。
実際に、この二条城で、攻略を練って、
1614年と1615年の二度の陣で、
大阪城を攻め滅ぼしました。
大阪城が無くなれば、天下は安泰とばかり、
その翌年、徳川家康は永眠します。
1616年に亡くなったのですが、
覚え方は、いろいろ(1616)
やってから亡くなった、
と覚えます。
イギリスでは、この年、
シェークスピアが亡くなりました。
ついでに言えば、
家康が征夷大将軍に就任した年に、
エリザベス1世が亡くなりました。
さて、二条城ですが、
1603年2月の征夷大将軍就任後、
すぐの3月21日、
出来たばかりの、二条城に入り、
25日、拝賀の礼を行いました。
ヾ(@°▽°@)ノ
家康没後10年、すなわち、
1626年、新たな殿舎を造営。
その片隅に、伏見城を
移築し、天守閣を建てたのだとか。
(ただし、あそこは、
そんなに大きな場所ではない。
五層だったと言うけれど、無理。)
あの狭い場所に
五層の天守を実際に建てたのだとすると、
めっちゃ、たて長の、塔のような、
不安定なお城でっせ。そら、あんた、すぐ
落雷を受けて、焼失しても、おかしくない。
台風で、壊れてもおかしくない。
地震で、潰れても当然かもしれない。
家康なら、そんな、ひょろひょろの天守は
作らなかっただろうぜ。
ヾ(@^▽^@)ノ
家康 : ほんまに。わしの子孫は、
あほたればっかしじゃの。
あんなモン作りやがって。
秀吉 : わははは。わしが人間界にもどって
作って来てやろうか?
家康 : あんた、もう、堪忍して。
わしとこは、もう城はいらんわ。
秀吉 : あんた、いらんのは、ええけど、
わしがせっかく作った大阪城、壊しやがって、
ほんまに、もう、この馬鹿たれが、こら。
罪滅ぼしに、わしの肩もめや。
と、いうような会話が天国で交わされたかどうかは、
さだかではないが、
その1626年は、
二の丸にあったとされる天守が、
淀城に移築されたという年です。
では、二の丸がなくなった二条城は、
ひょろひょろ本丸だけの、
安っぽい城になりさがった
のでしょうか?
実は、このころ、
後水尾天皇を招こうという運動があったらしい。
その行幸のための、御殿が造られる予定だった。
行幸御殿は、
今の二の丸庭園に出来ていた。
その行幸御殿は、誰が造ったのか?
誰あろう、小堀遠州、この人である。
造営奉行に任じられた小堀は、
さぞ、腹が立ったことであろう。
せっかく、造り上げた庭園は、
行幸御殿とマッチするよう、もう一度、
造営し直しとなったからである。
\(゜□゜)/
小堀遠州 : ばかたれが・・・
わしがせっかく作った庭園だというのに...
配下の者 : お奉行、まあ、そういわずに、
後水尾天皇の行幸は、徳川家にとって、
天下に
威厳を示せる一大事のことでござりますぞ。
小堀遠州 : ほな、お前に任せるし。
わしは、もう、きょうは、
ふてくされて、家帰って
お茶飲んで、ふて寝するわ。
Ⅱにつづく
ゴタぴょん