おじさま
- カテゴリ:日記
- 2017/10/28 13:28:18
台風、大雨、お家から出られない!
というわけでこんにちは、ミーです。
最近は週末を狙って台風が来てますね、せっかくの秋だというのに。
さてさて、今日語りたいのはブログタイトルにもなっている、とあるおじさまのお話。
私たちには勉強の過程で避けては通れない解剖という洗礼がある。
精神的にやられるどころか精神にくる前に体力的にやられて潰されるという伝説の学問。
朝から夜まで教授とこんにちは。教科書はまるで枕。最盛期の睡眠時間は3時間。両手は毎日筋肉痛。半日大体立ちっぱなし。登校時以外は日の光を浴びることがないためなんかみんなゾンビみたいな顔になってくる。
知識には限りがないため、どこを目標点とするかによって人によってもちろん大変さは変わってきますが。
真面目な学生とそうでない学生はどこの世界にもいるもので。
解剖は大抵どこの医学部でもカリキュラム上専門課程の最初の方に組み込まれています。
もちろん全ての基本である人体の構造が頭に入っていないとその後履修する科目を理解することができないということもある。
しかし、これは本当にカリキュラム上の問題だけなのか。
技術の進歩が著しい今、どうして直接人間の体からその構造を学ぶのか。
実際、既に医学部の解剖学実習が廃止されている国もあります。
解剖は死後に医学のために役立ちたいと献体の意思を持つ篤志家の方々の存在によって成り立っておりますが、
今回、色々とご縁があってその当該団体に名前を連ねられた方とご一緒することができました。
それがその素敵なおじさま。
引退して田舎暮らし、午前は先祖の供養と畑仕事、午後は趣味のゴルフか孫が遊びに来た時のためにカラオケの練習。
腎臓に疾患を抱えていらっしゃるため日々の食事には制限があるがそれを厳密に守っていらっしゃる。
奥様を大事にされ、遠くに暮らす息子や娘夫婦の平穏を願う、なんとも平和的で穏やかな素敵なおじさま。
献体の意志を持たれたのもご自身の病気がきっかけだったのだとか。
そんな善と平和と愛とが人の形をしたようなおじさまと色々なお話をすることができました。
どんな人生を送られてきたのか、どんな思いで献体を決意なさったのか、それに対するご家族のご意見、
それらは私にとって大きな衝撃でした。
解剖を進め学ぼうとすればするほど、彼らは一つの人生を作り上げ、それぞれ大切な人がいた同胞であるということを忘れる時が来ます。
それがこの学問の最も恐ろしいところなのですが。
おじさまが今回教えてくれたのは、
洗礼の如き解剖の、身体をもって物言わぬまま私たちに多くのことを教えてくれた「無言の教授」
彼らが見ているものは、私たちではなくそのもっと先にあるもの、
遠い未来、自分と同じように医療を必要とする人たちだということ。
そこに浮かぶのは親しい誰かの顔かもしれないし、自分と同じように病気と闘う見知らぬ誰かの顔かもしれない。
彼らの心を動かしたのはそんな人々の存在であり、
そして私たちはその意思を託されたのだ、ということ。
だとしたらその尊い意思をどうして私たちが踏みにじることができようか。
自らの無知と幼稚さを恥じたのは、
学ばなければ、努力しなければとこれほどまでに強く思ったのは初めてかもしれません。
解剖がまだ耐性もなにもついていない専門課程の最初にあるのは、
それらの重い重いものを背負う覚悟があるのかという意味もきっとあるのでは。
重い教科書を背負って学生の楽しみも削りに削って、
真面目な人ほど損をする世界で損をし続けてし続けて、
しかしそれだけの価値があると私は思います。
良い医師になりたいです。
という、ミーちゃんのコメを見て
興味を持ってね~
面白いソフト発見!!
解体演書
っていうのをお試しでやってみました。
人の体って、すごいね~(>_<)
それだけの覚悟をなさっていますもの。
ならないわけありません、期待していますよ^^
自分が納得するまで勉学をするのには
大変な努力が必要ですね
常に初心を忘れずに
一歩一歩進むしかないのでしょう
人との触れ合い、患者さん、その家族との触れ合いまでも
大切にしたいです
身体はもちろん心の安堵も
大切と思いますよ
じゃあ報いなきゃ^^
大丈夫、ミーちゃんならきっと大丈夫。
その想い忘れないかぎり。