現代哲学:限界への論理と芸術的語法;ソーカルの外
- カテゴリ:日記
- 2017/12/03 09:00:19
カトリーヌさんの一月前のブログでコメント持ち越しのままのソーカル事件…哲学と科学、論理的思考と創造的思考、理系知性と文系知性など様々な問題に関わる話題…コメの範囲を超えてしまうので久々の日記に…。ちょいムズかもしれませんが、事柄自体はシンプルなので、じっくり読んでみてくだされば、めずらしい景色に出会えるかも。^^)
★0:序
20世紀後半、先進諸国の先端文化に巨大な影響を与え、デザインなど日常文化にも広まった思潮がありました。それが、フランスで起こった構造主義、そこから展開したポスト構造主義…広くは、フランス現代思想やポストモダン思想とも呼ばれる思潮でした。
そのポストモダン系思想に、物理学者ソーカルが巧妙な批判をした。それがソーカル事件です。その文化的影響は、今の文化状況全般にも及んでいますが、実はそこで隠されてしまった面にこそ、今日の文化社会全般にとっても大きな問題が潜んでいる。そのポイントを、ザックリとお話します。
★1:構造主義とポスト構造主義
1950~60年代、それまでの近代の社会や、それを捉える自然科学から人文社会科学に対して、「それらが成り立つ仕組み=構造」という観点を重視した思想が、フランスで出現した。それが、文化人類学者レヴィ=ストロース、精神分析学者ジャック・ラカン、文化社会理論家ミシェル・フーコー、政治経済理論家ルイ・アルチュセール、文芸評論家ロラン・バルトらを代表とする構造主義でした。
構造主義は、日常でも学でも、何かを考える際に欠かせない「言語」の働きを、何より重視しました。その際、参照されたのがソシュールの言語学。それは、各国語の文法や語彙や用法ではなく、どんな言語にも共通する、言語に不可欠の基本的な仕組み=構造を探求するものでした。
ラカンは欲望の成り立ちや働き……レヴィ=ストロースは諸文化の親族構造……フーコーは認識や権力の構造……バルトは文学や記号の生産や受容の構造……それぞれの分析に様々な形で構造言語学を活用しつつ、従来の人文社会科学とは異なる斬新な探求を示しました。ラカンやレヴィ=ストロースは構造論的数学も活用します。
続いて70年前後、構造という観点<それ自体の前提構造>やその<生成過程>までも視野に入れた動的な構造論が登場。文学理論のクリステヴァ、哲学や思考を支える枠組みの構築物自体の限界を露わにする(脱構築する)哲学者ジャック・デリダ、生成過程を重視しつつ新しい実践的方向を提示するドゥルーズとガタリらの前衛的な思想が、ポスト構造主義と呼ばれた。
さらに、そうした新思潮を歴史的に捉えるリオタールや、モダンとは異なる現代の消費社会状況を捉える社会学者ボードリヤールらの著作もヒットし、近代の文化・社会を脱する、という点で現代が、ポストモダンと言われるようになり、ラカンやデリダやドゥルーズらの思潮は70~80年代、欧米から日本の先端文化でも多大な影響を及ぼしました。
★2: ソーカル事件:フランス現代思想の数学比喩乱用への批判
そうした状況を背景に、1994年、物理学者アラン・ソーカルが、現代思想系の専門誌にポスト構造主義風の奇妙な文体と内容の論文を投稿し、採用されました。
しかし雑誌が刊行された後になって、そのテキストは、物理の専門家ソーカルが、理数系の比喩をデタラメに用いて書いたフェイク記事だったことを公表! そんなエセ論文が、ポストモダン系専門誌に掲載されてしまったことで、当の雑誌はもちろん、ポストモダン思想全体の信用価が決定的に危うくなった…それがソーカル事件でした。
ソーカルは何よりそのエセ論文で、フランス現代思想での数学的比喩の乱用を戯画的に示した。 実際、特にドゥルーズやラカンの文は、異様なレトリック満載の、時に晦渋にすることで自己神秘化するような文章でもあった。数学的比喩の多くは、誤解や勝手な歪曲にも満ちていた。その過剰なレトリックへの批判は、ポスト構造主義系の潮流で自らの知性を育んだ詩蘭としても、十分に納得がいきます。
しかし他面でソーカル…そして後のソーカル追従者たちは、その批判に急なあまり、大切な点を見過ごしてしまう。
★3: ポストモダン文化の背景:論理と芸術性の不可分なフランス文化
西欧近代の諸芸術から人文社会諸科学を牽引したフランス的知性は、ルイ王朝時代以来のフランス的な文化環境の伝統を、その基盤としていました。
宮廷文化から市民革命前後の上流社会で育まれたフランスのサロン文化の伝統は、知識人と芸術家とパトロンらが共に語り合う場となっていました。そして、市民革命以後も、ロマン主義から印象主義と象徴主義、そして20世紀のダダやシュルレアリスムへ展開する華々しいモダン文化は、画家や音楽家や作家や詩人と批評家や学者そしてマニアやパトロンらが、また学的探求と芸術的探求とが、様々に絡み合う、サロン文化の風土がベースにあった。創造的探求と理論的探求は、背反しあうものではなく、葛藤や抗争も含め補い合ったり競い合ったりしつつ、豊かな関係を深める中で、それぞれの探求を進めてきたのでした。
学的理論や評論もまた、その概念や論理の創造的展開の過程で、大胆な比喩や寓意その他の文学的修辞のテクニックも活用する伝統が育まれた。ロマン主義期のボードレールや象徴主義期のマラルメなど、もっとも高度な批評や理論の担い手が、最高の詩人でもあったし、構造主義の前の巨匠サルトルも哲学者で作家でもあった。 評論や理論も、単なる単純な論理的展開ではなく、理論それ自体が文学的なレトリックや語法を内在的に活用することで、創造的な新しい理論や価値の創出を行っていたのですね。
それに続いた構造主義以降の現代思想の展開は、そうした背景から、近代の前衛的な科学・芸術的知性を徹底したものでした。論理と芸術的修辞法とが絡みあう前衛芸術的な探求でこそ、斬新な展開をしたものだったし、だからこそ、当時の先進諸国の先端文化を牽引する<欲望の対象>として輝いたのですね。
★4:ソーカルの一面性と その常識化の非論理性
そうした面を、ソーカル的批判は見過ごしてしまう。フランス系現代思想の生産的な探求は、その前衛芸術的な大胆な比喩や語法と共に展開されたのだ、というその意義が、それこそ十分<論理的>に捉え返されない。そして、その数学的比喩の乱暴さ≒大胆さの、負の面ばかりが強調され(それはその限りで正しくはあるのですが)、フランス現代思想の語法に苛立っていた人々に、心情的に喝采され受け入れられて広まり、以後、文化市場で、「問い返されない暗黙の常識知」のようになってしまっている危うさがあります。
ポスト構造主義を最も緻密に展開したデリダの論理的かつ芸術的な哲学は、ソーカルも批判していないし、そのデリダ哲学やソーカルに批判されたラカン精神分析学を、フランス系現代思想の批判の的だったカントやヘーゲルのドイツ哲学の成果とも大胆に再構成しつつ、斬新な探求を続けるスラヴォイ・ジジェクなどは、日常的な思考慣習のフレームが隠す、論理や語法の再帰的な生成過程そのものを、自らの語法・論法の内で、様々に捉え返し、かつ実演する、フランス系現代思想の成果を継承した、論理的かつ芸術的な思考の探求を行っています。
https://bijutsutecho.com/magazine/series/s13/18038
この指定管理者制度とやらは何じゃ?
今一つ理解しとらんのじゃが。。
私は、相変わらずネトウヨがぐうの音も言えないほど事件が起こればいいなぁ~と呪ってますよ
新しい日記を書きます。
他者との出会い、そして、下のコメで出した哲学者・廣松渉さんの哲学の話なども含めて。^^
私も師を探して三千里でしたが
目に見えない師匠がてきました。
でも、沢山の事を教えてくれる素晴らしい人達には、ココで出会いました。宝物です。
反自民だけど、その中身は、立憲民主党から社民党、共産党支持、そしてアナーキスト集団もw
で、ごく少数が自民、ほんのチョットアホウヨという感じで、
やはり 文化~インテリ系は、自民支持は少ないですが、
アナーキストの超インテリさんは、元は新左翼活動家で、後に無政府主義者に。
子供の頃は、両親教師だったけど、
父は保守王国群馬の出で、祝日には日の丸かけたりwそれでいて、赤旗もとっていたりw
オイラの唯一の師匠は、前にも言ったけど、二十世紀後半の日本の最大の哲学者廣松渉さんで、
彼は、『今こそマルクスを読み返す』という
マルクス主義への(共産党とは大きく異る)最良の手引書も書いているマルクス主義ものでもあった。
その彼もしかし、センスは古風な武士魂のような人で、
何しろ、中高生時代は、外に出る時はフトコロにドスを仕込んでいたというw
彼の最晩年に数年、いっしょに彼が後見人だった社会思想誌の『情況』の編集をやっていたのですが、
人格は最高の人で、とにかく今まで会った人の中で、もっともフトコロのデカイ人でした。
その頃は、もう癌に冒されていて、あと数年しか生きられないから…と、必死で本も執筆しながら、
詩蘭と一緒に、哲学の座談会を企画したり、詩蘭の本を出すよう応援してくださった。
彼の場合は、思想は左翼、人格は平等主義、趣味は自由主義で伝統主義 というw
一人の中でも色々ある、という 素敵な例でした。
彼があと十年 長生きしてくれたら、オイラのその後もかなり違うものになっていたかもしれない。
某スポンサー
自民支持(経済界関連)だけど今の自民党は支持しない 個人的な付き合いのある人には~的な話してた
親の元彼
父が共産党議員だったらしく、周りも共産党員の人多し、考えも共産党的な純粋な人
とある親の弟子
師匠には従え、自衛隊は素晴らしい
特攻万歳 心に闇をかかえてる
表に出さない マジメが仇となる
これ、ほんとまとまりがない
でも、仲良くしてるんですよwww
写真は撮りますけど、吐き気はしたのでしょうねwww
確かに、鈴木さんと鳩山さんがロシアに行ったときぼろっカスに叩いてましたね?
ロシアでしたっけ?(-_- )
とにかく、三浦瑠璃と上念司はてれびに出ないようにしてほしい。
って、マカリさんやカトリヌさんの日記には、長いコメしたりしたけどw
で、まあ、瑠璃さんも賢い人ではあるし、時おり スルドイことも言っているようだし、
詩蘭の友のフランス文学の講師ちゃんは、自分の奥さんと似てるってことでファンのようだけどw
下の、あずまん&津田ちゃんとの記念写真は、先日の瑠璃さんの受賞記念の時のものらしい。
まあ、政治的立場が対立していたって友だち、というのは構わないのだけどね。
詩蘭も昔、左翼系の大哲学者廣松さんの雑誌編集手伝っていた時、
古典的右翼の一水会代表だった鈴木邦男さんが編集部に遊びに来たりもしていた。
鈴木さんは、右翼とはいえ、とても立派な人格の人で、
議論も実に丁寧で、相手と論点がぶつかっても、けっして罵倒などせず、
冷静に相手の意見も聞いて、譲るところは譲るという、前向きの対話が出来る人でした。
その鈴木さんも、今のネトウヨからは、サヨとかお花畑とか罵倒されている!
ネトウヨというのは、古典的な立派な保守主義者ともまったく違う、阿呆ですね。
これもしかし、阿呆でもいくらでも発信できるネットという環境の功罪だな。
ネットは、かつての活字文化とは異なって、マカリさんのとこで さっき書いた、
ナルシシズム=自己愛ではない、自分をも汚す、幼稚なエゴイズムもいくらでも発信できるからね。
あずまんさんも意味深な発言してたし、津田さんもあのタイミングで名前出さないで吐きそう!って言ってるのは、本当に吐きそうなくらいムカムカしてたのかも。
その写真は、まだバカな発言を控えてた頃とか、若しくは大人の対応だったのか?
だったしりて?
その、漫画家の、はすみとしこは、そうだ!難民しよう!だっけ?移民しよう!だっけ?
それで話題になったアホです。
あとは、反日やってみただか、やってみよう、だかも書いてたはず。相手にしてなかったけど、さすがに今回は無視できなかった。
やれるだけやってみる。
TwitterJapanは電通の関連だと聞いたことあるけど、本社に直接言わないと無理かな~の案件だけに。英語力が無いからね困った。
#me tooの団体に送ってもいいんだけどね。
津田ちゃん そいうこと言ってたの? 瑠璃のことかなぁw
でも、瑠璃と東と津田 仲良さそうにいっしょに写ってるツイートあったぞ~w引っ越し作業に追われて、すぐレスできなくてゴメン;;
津田ちゃん そいうこと言ってたの? 瑠璃のことかなぁw
でも、瑠璃と東と津田 仲良さそうにいっしょに写ってるツイートあったぞ~whttps://pbs.twimg.com/media/DWZarwIVoAAsI1M.jpg:large
まあ、ギョーカイ文化人村 ってことだな
詩織さんの問題は ヒドイね~。。。
マカリさん そういう行動してるのか!
津田や東より偉い! 尊敬します!
Googleの翻訳アプリで
Japanese Twitter company is promoting discrimination and hate. It is very problematic!
って訳Twitter本社に@で送ったのだけど、届くと良いな。最近のTwitterJapanは、酷すぎる
その賞のって、ここ何日かの話かな?
津田さんが、吐き気がする!って呟いてたから、あ~三浦さんですか?ってコメント入れといたwww
あの人もネトウヨと闘ってる可哀相になる
人だけど、知識でネトウヨを潰して欲しくて応援してます。
ほんと最近、とんでもないフェイクがTwitterを廻ってます困ります。若者が鵜呑みにする
その授賞式の時に、東浩紀くんという 今世紀のオタク系文化論の代表者が同席していて
東くんのツイッターでは、その二人や
津田大介という これも昨今活躍中の金髪評論家もいっしょの写真が出されていて、ビックリしました。
東や津田は、どちらかと言うと リベラル系。
特に 東くんは、全世紀末、
日記本文の、ポスト構造主義という難解思想を斬新に解釈する 左派思想家としてスターになった人。
彼は、まだ東大の学生だった20代前半、
詩蘭と友人たちがやっていた研究会に参加していたこともあるんです。
当時すでに 浅田彰という現代思想のスターがやってた雑誌でデビューしていて
現代思想の先輩格であるオイラたちにタメ口で絡む 超生意気なガキだったw
夏の合宿では、オイラの車…セラちゃん…を運転したがるので、させてやったら、
これが超ヘタくそで、5分でやめさせましたw
その数年後、彼が本を出した時は、ネコちゃんが雑誌に書評もしたこともあった。
それが、今世紀に入ると、『動物化するポストモダン』という本で、
オタク系文化を、現代文化の最先端とするような方向を出し、
21世紀のオタク系文化を支える評論家になり、体重もいつの間にか倍増w
今では あずまん親方とも言われながらも、にしても なぜ瑠璃とつるんで
しかもツイッターでは 「安倍首相のメッセージもなかなか良かった」みたいなツイートを?!
世の中 ホントにわけわからんことだらけです。^^;
アノニマスもネトウヨ系もい!ば、完全に反対派の方もいる。ネトウヨ系のアノニマスは結構ひどいです。
ストレスから攻撃的な考えに辿り着く事も理解は出来ますけど、でも後々後悔する事になりますよね。
今は流れに乗ってしまっているのでしょうが、いつか良心が痛くなる日が来ることも知らずに…(-_-;)
量販店系のなら、男子でも女子でもブレザースーツ 4~5千
靴2~3千、体操服セット2~3千 運動靴2千
多めに見積もっても 合計1万5千くらいで済むのにねぇ
体操用の白Tシャツなんて、2枚組千円くらいで十分だし、
親のセンス あるいはお子ちゃんにセンスがあれば、それでもかっこ良く着こなせる。
オイラなど、ヤフオクで300円で落としたブランド物とかいくつもあるしなw
他方、超高そうなハイブランドばかりの気配の三浦瑠璃って政治学ネエチャン
ネトウヨのような 北のスパイの陰謀話とかテレビで言っちゃって 大炎上してるみたいですね。
アカデミズムも 政治屋と負けぬくらい 幼稚化した奴がはびこっている。
知人の名門私立大教授さんや別の仏文学者君など、
大阪方面になぜか瑠璃のファンが多く よくニュース・リンクしてるのだけどw
オヤジたちの知的&美的センス お里が知れてしまう。^^;
などなど軽く10万超えましたよ。
ほんと、何でかな?ってくらい金かかります。
小学校なんて汚しまくりの破れたとか、成長期で体操服やシャツズボン、3~4回は買い替えたし、不経済すぎる。
私立で国産ならまだしも、公立で外国産つて、まるでどこかの独裁党首のようwww
というのが、とんでもないですね。
学校のブランド力を誇示するためのアイデアだったようだけれど、
この件は逆に、「泰明小学校、和田利次校長」の低劣さを広報する逆ブランド効果になってしまったな。
自分の子が、この学校の生徒だったら、
こんな決まりが出されたら、むしろ 絶対にアルマーニなんか着せないよね!
アルマーニでなく
そこらの量販店で売ってる 思いっきり可愛いアニマル柄のシャツでも着せるw
そして PTA集会で、校長糾弾運動ですね。
20代~30代の男女は着たいしOK!
高齢者 イジメに繋がるのでは?
保護者 高い!
私立じゃないし。
この独裁者!どーなるのかなぁ(笑)
さすがに 大炎上しているようだけれど、子供の指定服に8万円もの超高価なブランド服!
小学校の教師や教育関係者が、こんなドアホウなこと考えるほど、平均的な知性劣化が進んでるのかね!
制服でなく標準服という名目であれ、始業式や卒業式その他の儀式空間では、
特にブランド指定などであれば、
着れない子に対する暗黙の差別が生じるだろうし、
子や親の側にとっては負い目や心的外傷が生じる可能性も大きい!
そもそも、ブランドに対する盲目的な信仰、ということで、すでに、
この決定に関わった教師や関係者たちの、美的感受性と知的判断力の低劣さが露呈している。
銀座文化の誇示どころか、その幼稚性と暴力性を表す、その意味で、歴史的珍事でしょう。
Twitter民の若者は、深く掘り下げて調べもしない、まとめサイトで読んで民主ダメだから自民党とか選んでるそうです。
レイプ揉み消し事件も、モリカケ問題も原発問題も他人事なんだそう。全て私達の生活に関連している司法の崩壊すら危機を感じてないそうです。
ボカロで若者の間で話題になってる「鋼鉄の鳥」を息子に教えて貰い、昨日検索かけました。
歌詞を調べた所、まるでゼロ戦を讃えてるようにしか私には思えなかった。
なので息子と話し合いました。
作品としては賛否あると思う。
でも、戦争を美化してる作品を作ってる人間は屑だと、そして沖縄のひい爺ちゃんは戦死してるとゆー事を教えました。決して美化してはいけない歴史。
この国、狂ってる!です。(-_-;)
<絶滅>というテーマが、前面に出てきてもいます。
この日記本文にある、ポストモダン=脱近代という思想や文化が大流行した80~90年代初期は
世界は古臭い縛りから開放されて ホントウの自由な世界へ向かう…ような気分が大きかったのに…。
91年の湾岸戦争、バブル崩壊から、一瞬にして
その前の楽観的気分に 新たな不安が噴出しはじめた。
そして、日本では95年ころ、阪神大震災、地下鉄サリン事件が起こり、
エヴァンゲリオンの 正体も意図も判らない敵(使徒)との闘いと、鬱屈した主人公たちの物語が出て、
失われた20年と後に呼ばれる停滞期に入ってしまった。
しかし、難しい世の中だからこそ、挑戦しがいもある と、前向きに捉えることで、
新しい希望もできる…はず。
滅びる方向へ人間は向かってるのかもしれませんね。かつて恐竜が滅びたように
結果、どんな善人でも、市場競争に勝たなくちゃ生き残れず、
それで、いやおうなく 他者を蹴落としても生き延びなくちゃならない、
そんな闇に染まらざるをえないんですね。
で、国内でも国家間でも、蹴落とし合いが進んでしまう。
それが、日常感覚にも蔓延すると、老若男女どこでも 魔が広がる。
まさか、権力者が国民を食い物にする、あってはならない未来になってしまった事は確かです。
無関心な私達世代が1番悪いのは解ってます。
政治家も経済界も高齢化してるので、そうそう続かないだろうと思っても、どーしよーもな若手や魔の2回生とか残ってるのでマズイです。
ネットも、やはり出会い系の闇に染まるのは、人間の弱い部分なのでしょうか。。。
1人
ネットは、新しいコミュニケーションや情報ツールとして、期待されたよね。
実際、日常の人々の交流でも、商売でも、他にも色々、多くの便利さをもたらしたけれど、
他方で同時に、初期には想像できなかった弊害も、どんどん現れてきてしまった。
今日、白根山で、専門家も想定していなかったところで噴火が起こり、多くの人が被災してしまったけれど、
自然もネットやテクノロジーも、想定できないブラックな面が、次々出てきちゃいますね。
ほんっと 子供の頃 夢見ていた未来の社会は、
もっともっとずっと明るい世界だったのになぁ
人を見下して優越感(論破など)
書いてる物事の本質すら理解せず気に入らない文字だけに反応し
わらわら、ネット友?一人100役?連れてきて炎上させ優越感にひたる?
何が楽しいのか?理解に苦しむけど…w
こないだ若い女優さんに意見の違う人に何を話してもザルに水を入れるようなものだから
スルーしないとつかれますよ?(以下省略)って書き込んだら( ^ω^)
お前もな!的な事書いてきた人いたけど、ムっとしたけど無視しまくったw
お前もな!って言葉最高!って書いてあったから、アホだこいつ!って思って放置。
こーゆー上げ足とれるような所をさまよってる穴の小さな男はホント持てない舞祭組認定www
プロフには炎上してる所のみるのがすき!って書いてあった。1番最低なタイプ
自分からは何もしないけど炎上しはじめたら参加して知らん顔する卑怯な人よ。
このタイプが多いのだと思いまス
構ってちゃんじゃなくて、こっそり火に油を注ぐ系の人
みんなに紛れてバレないように。まさに卑怯者!w
そーゆーやつが放置され相手にされないと変身して炎上野郎になるのかもしれませんね
政治や経済や様々な仕事、そして科学や芸術や哲学などの専門的な場面、
この日常と専門各分野という二つの場面に、共通する問題と、異なる問題がありますね。
ネットやスマホなどの影響は、日常から専門の場面まで共通するね。
ネットは、日常の事でも専門の問題でも、どんな情報にも簡単に接することができる基盤だし、
人々の交流でも、直接知らない人ともつながる道となった。
英語や中国語も使えれば、世界中の膨大な人々とつながる可能性も広がる。
と同時にしかし、常時、誰かの発信や投稿が気になったり、
新しい情報を追わないと、仲間たちの関心から遅れてしまうような思いも広がる。
そしてまた、特にTwitterやLINEのような短文コミュニケーションが主流になると、
以前のmixiやこのニコットタウンのように、ゆっくりと話を伝え合うというより、
とにかく 即座の反射的な応答や、イイネや既読マークのような、
おざなりな ただ つながってるよ~というアイサツだけを交わし合うような、
承認要求から さらには ただ仲間はずれにならないよう…という強迫観念に囚われる。
しかも、本人は、そうと気づかぬまま、ただ習慣的に、常時、スマホをチェックし続けねばならなくなる。
その点は、特に何かの専門家というのでもない フツウの人々も、様々な専門家でも変わらない。
そうして マカリさんの言う 「正しいこと」 そのことの中身が、薄くなっている気配はありますね。
その問題の背景に、この日記本文の、ポスト構造主義とソーカル事件以後の問題も関わるのだけれど、それは、次の日記のテーマに。^^
若者のテレビ離れは…現実からすると理解できる所もあるんですよね。。。
今の子どもは忙しく、捌け口がゲームやスマホしかないんですよ。何も制御される事も無く自由にできる空間。寝る時間すら大人なみに塾や部活、帰宅したら塾の宿題に学校の宿題、こーゆー子は豊田マユコや長谷川豊みたいな予備軍になるのではないか?と思う。
親が1番だったから、2番取ってきた子に、まだまだ甘いなとか言う家庭…大人になったら精神病むんじゃないか?
人の家の事だから、アレだけど。
家庭では家族は安らげる家であって欲しいと
思うのは、少ないのかな~。とかね。
ほんと、壊れた大人を治すより強い子どもを作る方が簡単だ~とは思いますね。
命を軽視しないよう、教えて行って欲しいですね。
オトナにも必要でしょうねw
昨夜も、駅前のバス停に並んでいた8人 全員スマホってたし。
トランプおじさんなども、「私は安定した天才」とか「金正恩と私は良い友だち」(!w)とか
アホウさを世界中にバラまいていらっしゃるしw
ネットの使い方、たかだか8年くらい前 ニコットが始まった頃からの数年でも
まるで変わってしまったものねえ。。。
他方、ネットやAIがどれほど高度化しても、
異常気象や基本的な生活の不安定は、全然改善されないどころか、どんどん危うくなっている。
技術革新の方向や、それを使う 人間の基本的な知恵や感性は、全然発展しないね。
ココで無理やり、日記本文につなげれば、
そうした基本的な知恵や感受性や価値観、その仕組みを探求し、
そうしたことの基盤から捉え返そう とするのが、哲学という営みなのですね。
1つ間違えたら愚か者のせいで
滅びてしまう、沈むよ日本もアメリカも
愚かすぎる
水の汚染のように人々の心も汚染されてるよね
昔は、町の中をドブ川が流れ、工場の排煙が空中を覆って、それで海も空も環境汚染が深刻になったし
それは、今、高度成長中の中国やインドでは 現在の問題だ。
日本では、そうした環境汚染は 一昔前にある程度超えたら、
ここ数年、急激にバーチャル・ワールドで 強烈な環境汚染が進んでるw
かつての環境汚染が、個々の家庭や車の排出物以上に、
まず、政府の政策に後押しされた大企業や公共産業の巨大な汚染と、そのインフラをベースに、
その上でしか生活できない個人や家庭がの排出物が流出したように、
今のネット環境の汚れも、ネットというインフラが育む 魔界の危なさですね。
子どもたちの LINEを中心としたスクール・カーストや
オトナたちの ネットを介したパワハラなんかも、最悪の環境汚染だね。
そして何より、子供もオトナも、ネットで膨大な人生時間を使わされてしまっている。
子供時代に ネットなんて無くってよかった。
水道民営化にするだの知らぬ間にどんどんアホな法案が出てくる出てくる(怒)
さっきまで息子の宿題の丸ツケやってやっと寝かせた。明日から学校、明後日から試験だから、ほんと最近の子は忙しいよ!こんなんで共働きだとコミュニケーションとれないよ!と思います。
年明けしばらく落ち着かずに こちらで新年アイサツもできず 失礼しました。
昼ごはん 食べた? って、いつの話だw^^
本年も よろしう
昼ごはん作ってくる
夏にお会いした松田卓也先生というAI研究第一人者の長老さんも、そんな夢を語っています。
http://wired.jp/special/2017/ghost-in-the-shell/01/
http://wired.jp/special/transcendence/
松田先生、アニメや映画に出てきそうな危ないサイエンティストの雰囲気持った科学者ですがw
まあ、しかし、その説は、異論もいくらでもあるし、彼自身、どれほど本気かは、ちょい不明。
また、上のリンク 二つ目の記事にある 意識の問題などは、
哲学的観点から捉え返すと、あまりに素朴…。
AI開発がすごい展開をしているのは、むろん認めざるをえないけれど、
そしてそれが、世の中を大きく変えていくのもまちがいないけれど、
それゆえ、AIへの幻想も肥大化していて、
AI専門家の話は、本人は科学的で合理的なつもりでいながら、
実は、科学の体裁に隠れた 新しい宗教的信仰のようになっている面も多い。
科学が合理的、というのは、
あくまで、自分が専門的に処理できる、その限られた範囲内のことなのだけど、
高度成長の最中では、あたかも全能であるかのような幻想が生まれちゃうのでしょう。
それもまた、まさに 人間に特有の、無意識の欲望の仕組み=構造ゆえですね。
そして、そうした面への探求は、
この日記本文で出した 構造主義系のジャック・ラカンの精神分析学が開いている。
ソーカルに批判された、過剰なレトリックはそのとおりなのだけど、
それを、より洗練させたスラヴォイ・ジジェクという哲学者の議論は、
そうした無意識の仕組みに関して、もっとも興味深い展開をしています。
気持ちも何となく理解できます。
私はそこに住みたいwww
そこで思うのは、感情というものの 複雑さと、ソレがあることの ありがたさです。
AIやロボットちゃんたち、情報処理というレベルでの知能は、どんどん高まるけれど、
人間や動物が必ず持つ、葛藤や抑圧や怨念や悔しさ、悲しみ、
そしてそうした感情を経てこその、開放された喜びや幸せといった感情
それは、単に情報処理の高性能化 では、けっして辿り着かない…。。
何か、根本的なところで、今のAIの仕組み=構造 の考え方に、大変革がないと。。
そのあたりに関して、
人文系の自分としては、何かお手伝いできれば…と、強く思っています。
ほんと、最近多いなぁと思うのは自分中心とか、勘違いな気遣い。しょうが無いかな~と思うことも多々あるのですが…ほとんど人を不快にするので無人島にでも住んで下さい!と言いたくなります。
ここ最近、……てな事が続いていたので、気持ち的にもtensionあがりませんでした。
自分らしくないとゆーか、お疲れなんでしょうね。
何とか、気を休めて充電しなきゃ!と思いマスター
まあ、人それぞれ、ある種の感情が出やすかったり、過敏だったり、鈍感だったりはありますね。
それに、喜怒哀楽が感情のすべて ではないし、喜びと楽しさの違いも微妙。
他にも、怖れ、嫉妬、焦り、安堵、心地よさ、高揚感…その他、基本感情も、複合感情も色々ある。
ただ、忙しいと、焦燥感が 他の微妙な感情を、特に心地よい感情を出にくくしてしまいがちだなぁ。
他方、何かにせっつかれることで、全身の流れが活性して、前向きの感情が強まることもある。
快楽主義は、うまくコントロールできれば最高に良い性質だと思うよ。
自分にも、周りの人にも、心地良い状態が最高になるように
そして、心地よさを邪魔するような物事は消していくように、
そんな風に生きられれば、
それこそ、世の中が良くなる。
ホントウの快楽主義というのは、
ギャンブルにのめり込む(結果、自分を不快にしてしまう)とか、
他人を蹴落として(他人の不快など構わず)上昇志向で闘う
なんていうのの正反対なのだから。
ここ最近、感情の欠落が凄くて、コンサートに向かっていても子ども達とChristmas食事してても、((o(^-^)o))ワクワク感もドキドキも、なんの感情も湧かない事に気付いて…疲れてるのかな~って、自分を休ませようって思いました。
私は個人的に、喜怒哀楽の1つ欠けた人なのですけど、人間は喜怒哀楽を持って始めて人間なんだと思うんですね。勿論、バランス良く出せることが健康で幸せなんじゃないかな?と思います。
そのバランスも人それぞれ十人十色なのでしょうけど。
この喜怒哀楽が1つでも欠けてるとやはり、何処か壊れてるんじゃないかな?と思います。
私ももともと壊れてる人なので理性を強く持たないと、ほんと破滅にしか進まないので、どちらかとゆーと、快楽主義なので最後は廃人でしょうね。
今は子ども達がいるから理性を保てるのですけど…結婚もせず独身だった…もしかしたら刑務所か病院に入っていたかもしれませんね~とゆーような人生を途中で歩んでいたので偉い事なんて言えた人ではなきのですけどね、生きづらい世の中になっちゃいましたね、なんとか回復させたいです。子どもらの未来のために
今宵は イエスさんと関係ない人たちも、
ヘンな社会観持ってる人も、お一人様も、ファミリーも、
みな 幸せな夜を。。。
小さなhero達が戦っている事も知ってます。
応援してます!過激派以外は応援です。
中には危ない系もいるので(-_-;)
とにかく、このネトウヨ系とメンヘラ系を一網打尽に出来ないものか?と考えてしまいます。
国民は立ち上がらないと政治家が日本を壊してる事実を知らないと、知って立ち上がらないと
ネット中毒のメンヘラ系、劣化した右翼のネット拡散バイト、これも知性劣化のお騒ぎ野郎
その三種 が、悪の三バカトリオですね。
知人で、必死になってネトウヨと戦ってる気配のIT系コンサル兄さんがいるのだけど、
そういう連中相手だと、闘いもむなしいなあ。。。
にしても、そういう連中のまく毒が、薄められてであっても 一般の人々の吸う空気に混ざっちゃって、
いくらかは そこらの市井の人たちのことも汚染しちゃうのも確かだから、
放置するわけにもいかないものね。
トランプの エルサレム問題や 地球温暖化問題での暴挙は、
そうした世界的知性劣化の最大のシンボルだしね。。
ネトウヨ系バイトは一人の作業で100~1000のアカウントを使いこなして自作自演などを繰り返してると、ネトウヨをバカにしてる人達が書いてましたね。Twitterで卵の状態かアニメ系の画像でフォロワー0などの捨てアカがワラワラと攻撃に現れるので世論調査的な質問を作っても捨てアカで操作されてしまうそうです。
IPアドレス1つにアカウントを1つのみしか取れなくしたとしても、タブレットやスマホ、1人で3つは取れるような現代なので、たとえばマイナンバーで1アカウントしか登録できませんとか、規制かけないと世論をねじ曲げる悪質な人間のやりたい放題は止まらないでしょうね。
あと、悪質になったのは、他人の目を気にしなくなったので現実でもクレーマーを平気で自称する人がいるとゆーこと。
羞恥心かないとゆーか、精神的におかしいとされてる人達が中には潜んでいる普通に、と最近思います。すべてにおいて無関心が招いた結果、テレビに洗脳された骨抜き国民…(^_^;)
ネットのニュースへのカキコミとかだと、すごく多そうだけれど
ニュースにムキになって書き込むようなメンヘラが、
そもそも人口全体では そう多くはないはず。
むしろ、普通の人たちで危ないのは、ヨソの国がミサイル実験すると、
ウチも軍備強化しなくちゃ…とかって、なんとな~く思っちゃうような、
そういう なんとなくのイメージが広がることでしょうね。
そのような 世の中の欲望を広めてしまう仕組みなんかを、
この日記本文で書いた 構造主義っていうのは、色々と考えたんですね。
人の欲望は、自分の欲望って思っていても、
実は他者に作られたもの 世間やメディアや権威という 「大きな他者」の欲望…。。
この、欲望を人々に吹き込み、人々がそこに依存する、そんな「大きな他者」の問題
それが、政治でも日常の感受性でも 大きく働いている、隠れた大問題なんですね。
馬鹿にしてるwww
ネジのまがり具合が凄いのね、ネトウヨ。
ありゃ家庭に問題ありだわ。
嫉妬に絡んでる人も凄いよ~あれ罰されればいいのに。見せしめに捕まって実刑されたら減るんだろうけど。
福井は原発4機もあるけど、ウチの町は7時以降は真っ暗。電気はドコで使われてる?とか、
沖縄問題より不倫問題のが受けるって国民意識の低さとか、
ネトウヨ系からイジられてもいるけど、応援もいっぱいあるね。
https://twitter.com/WRHMURAMOTO/status/942435184619675648
てがぶれた
昨日のウーマンラッシュアワーはスゴかった。
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お時間のあるときにでもみてください。
話題になってます~♪(´ε` )
大学のシーサイド・ゲストハウスから海岸に降りる写真、最初よりピントがクッキリしてる気がする!
なぜ?w
今のままで充分に話し合って和解へ
進む方がいいし、破壊的の独裁は滅びるべきだと思うのだけどね。ダラダラ日本も危機なのも良くない傾向に気付いて欲しいよ。
AIはどこまで進むのだろうね
大学、ソレかも。。。小泉時代に 産業界のキモ入りで まだ10年たたないはずの新設国立校。
いつの間にか、超莫大な税金が使われていたw
今回のオイラはお泊り代などで 少し取り返したがw
アの大学設立も、裏では色々あったという話は聞きます。
AI問題は、昨夜も、FBの専門サークルで、言語との関係で長いコメ書かされたのだけど、
マカリ日記でいま出ているような 人間の複雑怪奇な欲望
良くも悪くも そういうのができないと、創造的なシゴトとかもできないね。
ソレ以前の段階では、作る人間、使う人間次第。。
ここでも 危ない軍事方面が真っ先に色々やっているのは間違いない。
その仕組みがうまく働けば、村政治や村商売は成り立つし、
江戸時代の外は閉ざしても内部調達システムが安定していた時代や
高度成長期期のように問題あっても生産性がそれを補えた時代なら、問題も消せた。
しかし、今のように、経済的にも精神的にも、アチコチに分断や亀裂や限界が噴出してくると、
それぞれの小さな村政治も保つことができず、
村政治を超えた、大きな社会の構想が、必要になってきますね。
AIは、黄金比になるかはともかくw 与えられたデータの範囲内で最適解を超高速で叩きだす。
下で出した井上くんは、
AIの進展で、AIに仕事が奪われ、10~15年後には大失業社会となる…と予言している。
しかし、そこでAIが出した利益を、ベーシック・インカムでばらまき(ヘリコプター構想)、
人間は、それぞれの得意な仕事で、あまり儲けが出なくとも頑張れる、
そういう社会構想を出しています。
今のところ、それも夢の構想にすぎないけれど、
先だっても小泉進次郎に招かれて、お話してきたりなど、実際的な可能性があるかも。
本当は良き意味で使われて欲しい言葉ですよね。
最近の企業も、使える奴は独立か転職して使えない胡麻すって出世したような年配者か、もしくはガチの家族経営で破綻してる所多いですね。
それが不思議な事に、課長クラスまで仕事しない連中多いんだよね大手の保険関連会社とか。
人工知能で面接とかあれば、はじかれそうな人材が多いと思います。
でも、これも黄金比…使えない8割り使える2割で最悪の状況だったりして。黄金比は逆のようなきがします。
電通関係は、ずっと昔 詩蘭もなんかアート系トークショーした…もう記憶がワヤなほど昔だがw
あ、ライバルの博報堂って広告屋関連でもやったなぁ
棺桶片足の長老さんは、ハッキリ言ってアホウなのに、アート界権威になっていて、
詩蘭も血気盛んな20代前半、その評論の論理的な欠陥を批判した原稿が、
オイラの 評論デビューでしたw
で、しかし、ソレが ギョーカイ村の仕来りを破る振る舞いだった…と
敬愛できる少数の先輩さんのヒトリから教えていただいたのは、わりと最近w
つまり、日本のギョーカイってのはだいたい、論理的な正しさなどより、
お上のご意向を忖度して……って、村の作法に気配りしないと、村民にされない…という傾向がある。
けど、 んな クダランことやって人生時間 無駄にしたくないもんねv^^
ドル箱になりそうな人材には企業側が自然に集まってくるでしょうね。
隊長は異端児過ぎて今は棺桶に入ってるようか、先人に目を付けられてしまって肩身の狭い感じで~的なとゆーか、痛いところ突いてしまったんでしょ?www その頃から横のベタベタな繋がりはあったんですねぇ~。
初夏に会った井上智洋くんという若いAI経済学者などは、マレに見る優秀な人と見ました。
外見は、高校生みたいな感じの童顔の青年学者なのだけれど、
情報科学から経済学の専門家であるだけでなく、この日記本文で出した
構造主義やポスト構造主義という哲学系の思想にも造詣が深い。
初夏の研究会では、彼がそのあたりの難しい話を出し、ほとんど付いていける人がいなかったので
詩蘭が解説しながら、彼と議論したのだけど、
後の懇親会では中高生のような下ネタ話でも盛り上がったりw
賢いのにガキみたいにカワイイ 素敵な青年でした。
しかし、人文系のそれも異端系の詩蘭などからすると、
AIと経済学などという時代の先端の売り手市場舞台のスーパーアイドル井上くんは超うらやましくもあるw
その研究会でのギャラは詩蘭も彼も一緒だけど、
一般的にはあのジャンルでスターなんて超リッチだもんなぁw彼の周辺も利権綱引きだらけだろうが。
井上くん、12/14 23:21のコメで出した長老の松田さんと共に出た電通のトーク記録がちょうど出ました。
https://dentsu-ho.com/articles/5699
お金や権力なども蜘蛛の巣のように絡み合うから、いろいろタイヘンですね。
トランプの、あの一国至上主義や挑発的言動だって、超巨大な軍事市場が絡んでいるからこそ。
そうした点に関して、哲学や倫理学や美学(感情の学)や社会学は様々な知見を深めているのだけれど、
それは、市場や利権に直接つながらない。
むしろ利権やそれを支える人間の欲望や感情の仕組み(日記本題に言う「構造」)を暴いてしまう。
だから、警戒されてしまい、儲けにはつながらない。
それで、支配層は、批判的な思考や感性を育む 哲学など人文科学を 大学からも減らしてしまおうとする。
哲学的知性が育つと、正義や善悪への思考力も高まってしまい、
結果、表向き 法の支配に即しながら、その隙間で利権をむさぼる社会構造に対する、
批判的な感受性も高まってしまうからね。
スポンサーに痛い目にあったけれども、下克上で這い上がった素晴らしい人だな~と感動しました
満屋 裕明
生誕 1950年8月9日(67歳)日本 佐世保市
研究分野 ウイルス
出身校 熊本大学医学部(1975年卒)
主な業績 世界初のHIV治療薬 (AZT) の開発
主な受賞歴 紫綬褒章(2007年)
日本学士院賞(2015年)
プロジェクト:人物伝
1985年、アメリカ国立衛生研究所で世界初のHIV治療薬「AZT」を開発した[1]。同年にAZT開発について論文発表をしたが、アメリカでの特許は、実験に協力していたバローズ・ウェルカム社が、満屋に無断で取得してしまった[2]。満屋は同社が高価格でAZTを売り出したことに怒り、さらに新しいHIV治療薬の研究に励んだ[2]。その結果、世界で2番目と3番目のHIV治療薬(「ddI (en:Didanosine)」と「ddC (en:Zalcitabine)」)も満屋が開発した[2]。なお、満屋がライセンスを企業に与える際には、適切な価格での販売を条件にしている[2]。
2006年には、アメリカの研究者との共同研究で開発したHIV治療薬「ダルナビル (en:Darunavir)」が、途上国が特許料を払わずに使える医薬品として世界で初めて国連の機関に登録された[3][4]。
2007年には紫綬褒章を受勲、2015年には日本学士院賞を受賞[4]。
この最初のスポンサーの薬品会社が特許を取り~をみてるとスポンサー絡みに巻き込まれたのかな~と思ってます。
↓の追記
もしも、高級車やマンションや女遊びに派手であれば、周りの人達が色んな噂を流しますよね。
この流れだと間に人がいて巻き込まれた感はありますよね。
てか、うちの旦那もその類いでした(^_^;)
で、この話は、カトリーヌさんが少し前に出した「読解力」についての日記 そこで、詩蘭がコメした、
文系における論理的読解力不足/理系におけるメタ(=突き放した)読解力不足……という問題にも関わる。
理系の人たちは、自分が直接関わっている問題への理論的思考力は高い。
しかし、自分がそこで動き、また自分の思考を、無意識に支えている規範や慣習を
突き放して=批判的に捉え返す、創発的かつ反省的な思考が弱い…という傾向がある。
斉藤さんも、そうした傾向があるかもしれない。櫻井よしこなんかにも色目使われていたようだしねw
そうそう。。
渦中の斉藤氏は、エンジニアとしては間違いなく天才のようだし、
初夏に研究会でお会いしたAI開発の長老の松田卓也という先生は、
シンギュラリティというAI革命を世界で最初に自分が達成すると言っているのだけど、
それには、斉藤氏のコンピュータが無くてはならない、と言っていて、
今回の事件では、即座に SNSなどで斉藤氏擁護を叫んでいる。
マカリさんが引いた記事などにもあるように、
エンジニアさんらは、政治的には素朴な人も多く、また、先端テクノロジーは巨大な利権も動くので、
政財界でいいように使われている人も多いし、斉藤さんも そのあたりは怪しい話が色々あるね。
スパコン開発助成金詐欺で逮捕されたPEZY COMPUTING社長の斉藤元章 容疑者(49)が元TBS記者で安倍政権の御用ジャーナリスト・山口敬之のスポンサーであることが週刊新潮にスクープされました。
山口敬之と言えば、伊藤詩織さんにレイプ被害告発をされているジャーナリストでもあります。
タイヘンだったけど、今回の一番の救いは
宿を提供された大学のゲストハウス、部屋のベランダから広がる 朝の海岸の景色でしたw
にしても、その大学、スッゴイ環境に超豪華な施設で驚いた。
学生や教師も9割ぐらいが世界中から来た外人さんで…
まあ、背景には怪しげな利権の噂もあるらしいのだけどw
それとは違うけれど、今回の滞在中、
日本のコンピューター開発の先陣にいる斉藤元章さんの助成金詐欺疑惑問題で関係諸氏が大騒ぎ…
彼が、そんなケチなことするはずがない、彼はハメられただけで、むしろ被害者のはず、
彼が捕まってしまったら、日本のコンピューターやAI開発は、完全に世界に遅れをとる、とか…。
門外漢としては、真相はまるで分かりませんが、周囲のAI関係者たちはみな、斉藤氏を擁護していました。
ネット会議のようなものは、春に、絵画関連のトークショーで、
それは詩蘭は登壇はしていなかったのですが、全体討論で、総括する役回りとなった時、
沖縄の大学の教授が、スカイプで参加していて、詩蘭と会話し、
それをキッカケにSNS友になりましたw
今後も、沖縄で何かヤレ、となったら、ネット会議などでなく、裏工作しても 行きます!w。(^o^)。
(天気が良い時、なら…ねw 台風や灼熱地獄の時は ご遠慮させていただきますがw)
もうずいぶん長い人生の中でも、この週末の沖縄遠征ほど急できびしいスケジュールはなかったくらいw
でも、沖縄の自然は、ホンットに素晴らしかったよ~。
東京から、車で3~4時間くらいだったら移住したいくらいなのにな~w
ネコちゃんの12/04の 作者の意図と作品解釈、そしてソーカル問題は、複雑なので、少しゆっくりと。
東京と沖縄を回線でつないで、沖縄の講演会場のスクリーンに出演でやるのってどう?
もちろん双方向通信だから、現地との会話も可能。。
沖縄遠征から戻ったけど、今日はまだ 疲れが取れてない~;;
はにちゃん 他の方も、コメ&レスやニコ散歩など、明日までお待ちくださいませ。
目の前に置いて、じろじろ眺めてみたい人です
帰京した後で、続き書く (=^・^=)
↓ まるでコンピュータのプログラム作りの現場並みやでぇ (;゚ロ゚)
無茶だろ? 50分の講義の原稿、二日で用意しろと?
え? 飛行機は金曜朝便、宿ももう取れてる?!
で、土曜の午後に登壇? 相手は未知の先生で?
実質、今日しか原稿用意できんだろうに!
しかも 旅の用意もせにゃいかんし
ネット広報用のレジュメ300字は 数時間中に送れって…
いや そりゃ ひと月半前にそんな話、お電話いただいたけどさ
その時は、も少し煮詰まったら、ご相談しますね…ということだったのに…
本チャン3日前に 全部用意出来ましたので……ってwww
そんな無茶な話、さすが企画者 宇宙人間違いなしのNさんだなぁ
ってワケで、ネコちゃん マカリさん レスは、来週火曜以降にオアズケお願いしますちゃ
ましかし、このニコ日記のソーカル事件問題と、次のネコちゃんへのレスのためのお勉強は
たまたま今回の講演のテーマとクロスするので、
ほんっとに偶々の偶然 ちょい予習というか結果 下勉強にはなった。。。
にしても、今日は寝不足だし、明日、原稿用意は数時間しかできん!
せめて一週間前には言えよ~~~~!!!
読んでみまふ
フランス現代思想では、ニーチェの「神の死」などを遠い源泉としながら、
「作者の死」や「主体の解体」や「人間の消滅」なども盛んに言われましたね。
この問題も、実はソーカル事件とも関わるし、グルっと二回りくらいして、
昨今の AIブームの中での、シンギュラリティ問題や、
他方の、脳神経科学や認知科学と 意識の問題などとも、絡む。
そして、ネット世界での、このアバターたちのような ヴァーチャルな仮想人格の問題とも…。
本題とうまくつながるよう論点を整理して、少し時間もらってレスします。
私は一方で
ニコ友さんの書かれた素晴らしい小説とか読んでいると
作者が自分の心血を注いだ子供のような作品を
作者の意図通りに読んで欲しいという気持ちもよくわかるんですよ
そんなテキトーな読み方されたんじゃたまったもんじゃない
という気持ちもね
そして科学系の言説が
恣意的解釈混ぜたら体系として成り立たないじゃん
というのももちろんわかる
でも↓でカトリーヌさんもおっしゃっているように
突き詰めてみて
どうしても理屈に合わない となれば
これはフレームワーク自体変えなきゃダメなんじゃないか
という段階に至ったときは
なんらかの「外」の思考が必要になるんだよね
ソーカル事件にしても
ソーカルがもし
当時のフランス思想の判じ物的な閉塞感を吹っ飛ばすという目的でやったのなら
いいと思うんだけど
ほら見ろ デタラメ書いたってありがたがるんじゃん
結局みんなデタラメなんじゃん みたいな
たんに貶めることが目的だとしたら
生産的じゃないなぁ と思ってしまうんだよね
フーコちゃんは、実はリケジョなんだっけ?
この、ソーカル事件というのは、文系vs理系の戦争 サイエンス・ウォーズ の一環 でもあったんです。
しかし、理系でも文系でも、ホントウに深く、理系・文系それぞれの意義や可能性を考えていた人にとっては、
かなりバカバカしい事件だった。
そもそも、理系文系などが今のような形で分かれたのは、
デカルトやニュートンの科学観やライプニッツの微積分など近代数学が発展した17世紀から、
産業革命が興った18世紀くらいに少しずつ、数理処理と仮説・検証のシステムが整備され、
市民革命以後、近代的な大学や研究組織が整ってきた200年前くらいから。
で、その近代科学は、数理処理という手法で、広範な実用的応用の可能性が広まり、
資本主義という成長を不可避とする経済システムの急激な発展と共に、
日常世界の実用的な意義を獲得した。
それはスゴイことだけれど、その結果、自然科学的な世界の捉え方こそが、世界の真理
みたいな“信仰”が コモンセンス(共有される感受性=常識)になっちゃったんですね。
しかし、自然科学的な世界の捉え方は、(とても重要だけれど)
あくまで、世界の捉え方の “一つのレイヤー” にすぎない。
そもそも、自然科学的に世界を捉える、ということは、何をしていることなのか?
その真偽や良否の基準は、どのように作られているのか?
人間の経験は、すべて数量的把握で済むのか?
といった事自体は、計量的に捉えられない。
あるいは、美的経験とはなにか? 性的快楽と美的快楽や愛情の幸福は、どういう関係にあるか?
なども、自然科学的なレイヤーとは別のレイヤーにある。
そうした問題が、どれも、この事件に結びついてもいるんです。
ソーカルの あのパロディー論文は、面白そうだよね。ソーカルは、才人ではある。
そしてしかし、それに引っかかっちゃった『ソーシャル・テキスト』って雑誌の編集者はマヌケだなw
「これはパロディーだけど、面白い!」って理解して、そういうキャプション付けりゃ偉かったのだがw
まあ確かに、ポスト構造主義系でも、ドゥルーズ…特にガタリとペア組んでからの『ミル・プラトー』などは
阿呆みたいに大げさで空虚な表現多かったし、
ドゥルーズは日本では浅田彰らにやたら持ち上げられちゃって、インテリ層の流行にもなったけど、
オイラは昔から 面白いと思えたことはなかった。
ジジェクが、「ドゥルーズのオカマを掘る!」って、奇妙な<読み替え>をしていて、
それは、けっこう面白いのだけど、
というわけで、ドゥルーズの過剰比喩をソーカルがやっつけるのは、まあ、許す…というか、どうでもいいw
例のパロディー論文は、今、どこかに埋まっていて見つからないのだけど、引越しで出てくるでしょうw
としても、ソーカル自身の世界についての哲学観は、実はすっげ~素朴!
パロディーの問題ではなく、その後、ソーカル自身が解説しているテキストを読むと、
ソーカルの世界の捉え方は、構造主義のキモや ネコちゃんも学生時代に扱った現象学の成果を
全然、捉えていない。
フッサールやメルロ=ポンティらの現象学が探求した、世界経験の相互主観的制約は、
ソシュール言語学と共に、構造主義の世界把握の先駆でもあるけれど、
そうした観点を、単に、相対主義としか見ていない。
もっとちゃんと デリダとか…あるいは詩蘭の師匠、廣松渉さんの厳密な哲学を勉強しろ!と言いたいw
ネットでもリアルでも、誰かのある発言でも、歌の歌詞でも絵画でも、
どのような観点から捉えるか? とか、どのような気分の時に接したか? などによって、
その内容は、変わってきますね。
だからと言って、どんな解釈もできちゃう、というわけではない。
「空が曇ってきた」と誰かが言ったとして、
それを聞いて、「ホントだ! 机がひっくり返ったね!」などと解釈したりはしない。
(そんあ可能性も、ゼロではないけれど)
ただ、ソレを聞いて、「洗濯物 取り込まなくちゃ」とか、「傘もって行ったほうがいいかな?」とか
「せっかく浮世絵のような月が出ていたのに…」とか、どういうポイントを重視するかは、ケースバイケース。
としても、そうした解釈の幅(下のルルルさんへのレスで言う、表現面と内容の関係)は、
その人が長年かけて習得した言語の構造に 制約されている。
「浮世絵のような…」といった反応は、浮世絵という言葉やその内容、
そして、その言葉が指す 現物の“浮世絵”を見た経験や知識…
そうした様々な仕組み=構造に支えられているからこそ、できるし、また、その範囲を超えることはできない。
そういう言語と経験の仕組み=構造を、構造主義という考えは、様々に追求したんです。
これ面白いわーw
引っ越し終わったらまたゆっくり読もう^^
「言語分析を重視する」と言うと、まだ出してない英米系の分析哲学の方とも言えるんです。
その英米分析哲学系とフランスの構造主義系、どちらも言語を重視するのだけれど、重視の仕方がかなり異なる。
英米分析哲学は、20世紀前半、ラッセルやウィトゲンシュタインが示した、
論理的合理性と実証できる経験から世界を捉える、という観点に基づく論理実証主義から展開した。
しかしその元祖ウィトゲンシュタイン自身が、論理的言語を重視した初期の観点を撤回し、
日常言語の使い方をベースとする。
その観点から、オースチンやサールらを中心とした日常言語学派が登場する。
・その英米分析哲学をフランス構造主義の観点から見ると、
論理実証派は、日常的な論理や実証や科学的真理などを支えている言語の構造自体が、
問われない前提となって、盲目的に信仰されている…。
日常言語学派は、論理と実証信仰は相対化したけれど、
当の日常言語の仕組みに隠された面は問われない…ということになる。
逆に分析哲学側からすると、フランス構造主義系の議論は
(またハイデッガーなどドイツ系の思弁的で重厚な哲学も)、
あまりにペダンティックで、検証や実証不可能な事柄を偉そうに語る蒙昧主義にも見える。
この、大陸系(仏独系)の哲学や思想と、英米系の哲学や思想との対立は、
実は ルネサンスの後、デカルトやホッブズなどバロック時代の頃から
大陸合理論vsイギリス経験論の対立としてあったものの現代版、という根が深い対立です。
・実はこうした「文化的ベースの差異」こそ、構造論的観点からは「文化的構造の差異」として捉えられる。
ここに、構造主義的観点の 分析哲学系言語哲学とは異なる特徴があるんです。
構造言語学の要点は、言語というものが、人間たちによって作られた人為的なものであり、
ゆえに、時代や社会によって異なった形で構造化される…
そして、習得した人々にとっては、逃れがたい経験の枠組みとなる…
この面で、言語は、人間の他の様々な営みにとってのモデルともなる。
日常的慣習も政治も、科学や芸術も、それぞれのジャンルの基本構造は、言語構造のように構成され、
ゆえに、社会や時代によって、その組成も機能も異なる。
現実社会はそうした様々な構造体の重層構造として捉えられるのですね。
的確な要約で
わかりやすくポイントを整理しつつ
ご自身のフィールドでも類似したケースを提示していただくという(*゚▽゚ノノ゙☆パチパチ
この事件はいくつかの問題を含んでいるけれども
私がのっけから「作者の意図」に関する側面をクローズアップしちゃったから
ちょっと偏ってしまいましたね^^;
すみません~o*_ _)ペコリ
ちょっと気になったんだけど
このソーカルの論文ね
『境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて』(Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity)
というヤツ
本人曰く「まったくのデタラメ」っていうんだけど
どういうデタラメだったんだろー(。◔‸◔。)?
と思って今ちょっと読んでみてます^^
そういう表現こそ、「言語の働きの隠れた核心」を あからさまに示す、ポストモダン理論の鍵の一つ!
構造言語学の基本については、ココでも後にザックリ説明するつもりですが、
表現面の、ちょっとしたズレや逸脱が、日常的な慣れ親しんだ言語理解とは異質のシーンを開く。
詩やお笑いの表現は、そのようにして、世界の新鮮な姿を呼び覚ます。
このような言葉の戯れを、構造主義周辺では、「シニフィアンの戯れ」 と言いました。
言葉や記号は、その表現面と内容面があるよね。
“猫”という同じ内容についても、日本語なら「猫」と表現し、英語なら“Cat”と表現する。
この、「猫」や“Cat”という表現面が、シニフィアン(signifiant)
その表現=シニフィアンが表わす内容面=意味が、シニフィエ(signifié) という。
(ソシュール言語学の独特の特徴を強調するため、術語はフランス語原文の表現のまま使われています)
で、こうした表現の戯れ・シニフィアンの戯れが、人に笑いや驚きを引き起こすのも、
言語の、表現面と内容面の繋がりが、日常は安定しているから…
だからこそ、独特の逸脱的表現が(うまく仕掛けられれば)、新鮮な面白さや驚きを誘う。
言語構造論の全体については、この板で、数日の内にその要点だけでもコメしたいと思います。
音楽界には多そうな話ですね。
この歌詞をこんな感じで受け取ってたけど、
書いた人から聞いたら「え?!」って内容だったり。。。(^_^;)
聞かなきゃ良かった的な。
フランスの構造主義、ポスト構造主義とは、
あらゆる学問や行為・現象において、それらを認識し、解釈し、究明する時の思考の枠組みは何か?
それを言語分析から論じていこう~という試みであったと、考えていいのかしら???
思考の枠組みを論じるにあたり、専門の構造主義思想家たちが、
芸術的な修辞や独特の言語表現、進んでは数理的な文言まで駆使して論じていたところ、
その数理的言い方は、テキトー過ぎるだろ~って批判したのが
ソーカル事件ということなんでしょうかしら??(汗)
ま、サイエンス世界の人(法学や官僚さんの世界、あるいはテクノロジー世界の人も・・)は、
用語や数式ついて、創造的・多義的な解釈を、可能な限り廃するように厳密に定めるのが、
彼らの世界の流儀(ココで既に思考枠組みが前提として無意識に定められている)ですもの~、
いかに比喩表現だとしても、フランス構造主義思想家の間で、数理・物理用語や概念が
融通無碍な使われ方をされるのは、我慢できなかったのかも知れませんね(苦笑)。
ただ、あまりにも用語や表現を厳密に定義し過ぎて、多義的に解釈できる自由度が減ってくると、
それらが持っている創造的な作用が無くなってしまうのも事実。
いわゆるメタファーが無くなった世界は、思考の飛躍を許さない窮屈な世界となるかも・・。
下のコメ欄で述べられている、
「それを支えるフレーム自体が、一つの神学の遂行文のフレームを前提している。」という例は、
ビジネスの現場ではよく経験します。大抵そこで、お仕事が行き詰ってます~(笑)。
そこでフレーム変えると、解決策がパッと出てくることは多いです!
フランスの思想とドイツの思想の違いまで描いて頂き、ありがとうございました。
次は英米系の思想や、インド、中国、イスラム等の思想、そして日本固有の思想についても
論じて頂ければ幸いです。
私的には、、作者の意図も超えた庫裏エイティブな解釈は、ありありでいいと思うんですよ〜
あぁ〜そういう風に解釈してくれたんだぁ〜ありがとう〜みたいな、作者の再発見も、あると思います
ただ、、それを言っちゃ〜押し名誉〜あれ?お終いよ〜という
素直にそうは言えない社会的システムとか、経済的な柵なのか?
作者の個人の器が、狭いからなのか?
きっと、心の中では、、そういう風に感じてる方も多いのでは?
最後の 「実際そんなヤツはいねー」ってのは、日常的な現実の一面だし、
それは、ニコなどのネットやリアル日常の家族や友人、知人との会話だけでなく、
昨今の国際政治のあまりの馬鹿馬鹿しさなどを見るにつけ、
デリダらが呼びかける 異質な他者に対する<歓待の倫理>などは、
ポストモダンの現代の、見果てぬ夢 かもしれないですね。
けれど、であればこそ、それに気づく者は、あきらめず呼びかけ続けるべきだろう…
さもないと、ホントウに人類に明日はない…次の世紀はない…というリアルな黙示録が待つだけかもしれない。
「作者の思いとは、裏腹に、受け手によっていろんな解釈ができちゃうもんね〜」
と言う場合はやはり
作者の思いや意図は尊重すべきという観点だと思うんだよね。
そしてそれはフツーに考えたら
日常の会話だって
「私はそんな意図で言ったんじゃない〈キ`ェ´〉 ムッ!」って気色ばむ
って場面もあるワケで。
シランさんの言ってる
「ポスト構造主義が主張した大事な面」というのは
そういう作者や発話者の意図を超えて
もっと創造的な読み方や受け取り方してもいいよね。
それで生産的なことができればステキじゃない( ´∀`)bグッ!
って発想だよね。
まぁ作者が直で出てきて
「それはそういう意味じゃないんだよー。アンタ読解力ないなぁ」
って言われれば
「そうですか」って引っ込むしかないんだけど
ポスト構造主義の主張からすれば
作者は
「へー そんな読み方ができたんですかー ぼくは考えてもいなかった。
面白い読み方ありがとー( ´∀`)bグッ!」って喜ぶべき
ってなるんだよねw
しかし実際そんなヤツはいねー( ゚∀゚)・∵. グハッ!!
あはは…こういう話、少し慣れれば、ここで話しているくらいの内容は、そんなに難しくないのですけどね。
構造主義だとか、ラカンやデリダだとか、ふだん耳慣れない固有名詞が急にイッパイ出てくると、
それだけで、何の話か 全然イメージも出なくて、捉えどこもない…という面はありますね。
このテの話題に 初めて接するような人にも、何か糸口が見えるよう、少しずつ、解説しますので、
少し お待ちください。
まずヒトコト、最重要点だけを言えば、
20世紀末に世界の先端文化に大影響を与えた思想があった、
それが、構造主義からポスト構造主義という思想だった。
で、構造主義とは、読んで字の通り、
人間や社会や文化の様々なモノゴトを それを成り立たせている「構造=仕組み」から解明する、
というもの。
その際、人間が何かを考える際も、政治や経済でも科学や芸術でも恋愛や宗教などの人間関係でも、
どこでも、言語というものが、その仕組みの基盤にありますね。
そこで、言語構造の働き方や仕組み=構造を基本として、心や社会や文化を捉える。
そうした思想なんです。
で、しかし、その思想は、芸術の国フランス生まれゆえ、芸術的テクニックも全開で使う
華麗で過激な文体で展開された。
そこで、物理屋のソーカルさんというのが、そんな無茶苦茶な比喩だらけの思想を
物理の専門家である自分自身がパロディしてみることで、デタラメだと告発した。
それがソーカル事件だったんですね。
しかし、その批判は、一面では正しいけれど、あくまで一面的だった、というのが、ここでの主旨です。
るるるさんのコメは、ポスト構造主義が主張した大事な面に触れてはいます。^^
次のコメント、「作者の死」の話は、詩蘭の友人の例の文化人類学者くんなどは、
今も、毎日のようにツイートしていますw
他方、ソーカル事件の後の今も、ドゥルーズに嵌る若い批評家や思想家も千葉くんはじめ多いのだけど、
そうした人たちは、今も、主体の死や、作者の死、他者の可能性などを、
これは、もう少し、ソーカルちゃんの批判もちゃんと受けてよ!って言いたくなるほど、
宗教信者のようにドゥルーズ教や、昨今流行りのメイヤスーらの思弁的実在論信仰など、
ニューエイジ系の信者めいてもいます。^^;
他方、AI系のインテリなどでは、ソーカル批判を真に受けて、
脳神経科学や認知科学の“客観的真理性”などに、本人はそれも一つの信仰という自覚もないまま、
どっぷり信仰していたり、
あるいは、AIのシンギュラリティー という物語を、黙示録信仰のように崇めている人も少なくない。
結果、本人たちは、事実確認的(コンスタティヴ)な言明だけを科学的語法として認めているつもりでも、
実は、それを支えるフレーム自体が、一つの神学の遂行文(パフォーマティヴ)のフレームを前提している、
そうした面に、気づこうともしない人も多い。
(ポスト構造主義系の探求は、まさにそうした意識に隠れた思考や態度の、生成構造分析でこそ、
画期的だったのにね)。
そうした中、例のAI経済学の井上智洋くんなどは、AI神学もクールに距離を取りつつ、
他方で、ラカン的な欲望分析の謎の記号 「死の欲動」などを、キー概念としながら、
AI革命によるベーシック・インカムの実現可能性を、現実的に考量する、という、
とてもバランスの良い知性を発揮していると思えます。
要は、作者の思いとは、裏腹に、受け手によっていろんな解釈ができちゃうもんね〜ってことであってる?
ネコちゃんのリンク先の、ネコ日記のネコちゃんのコメにある、パラフィクション問題、
それこそ、ポスト構造主義のデリダやラカンが、もっとも明晰に問題とした、言語の機能の一つですね。
芸術作品でも、哲学や自然科学理論でも、そして宗教テキストだって、日常会話やネット会話だって、
一つの発言や作品の中に、観点次第で、様々な意味が潜在している。
そして、そうした多様な観点へ誘う仕掛けが、高度な作品や理論にはある。
また、良い受け手や聞き手というのも、
作品(エルゴン)や物語(フィクション)や論考(ロジック)や相手の発言(エノンセ)の傍ら(パラ)に、
様々な観点やそれに伴う意味生成の可能性に、反応するセンスがある。
ソーカルの批判は、ポスト構造主義系思想の、過剰な比喩や論法のマイナス面を批判するに急なあまり、
そうした比喩的語法にこそ孕まれた、多様な意味が生成する可能性を 看過した。
そして、あの衝撃的なやり口のスキャンダラスな事件性ゆえに、過大な影響力を持ってしまった…
しかしその<事実>は、ソーカルがポストモダン思想を批判した「論理の外の情感的な作用」を、
ソーカル事件自体が発揮してしまった、…ということを、再帰的=自己言及的に示してもいる。
ココでは、ソーカルの過激なやり口(=テクネー!)自体が、
ポストモダン思想とは別種の、しかしまさにソーカルが批判する美的効果でこそ、
力を発揮してしまった、という、これは、負のパラテキスト・パラロジー効果の例、という面も見いだせる。
そうして、ソーカルの批判は、メビウスの帯状に、ソーカル自身にも降りかかってもくる。
そこは面白いですね。
う~ん
わかりましぇん
もう古いんだろうねw
そして科学系の言説は
constative statementとして真理を語っていると認めろ!
とますます要求してくるワケだねw
たぶん近いものがあるんだろうなと思った。
ちょっとココ↓の最後のコメを見てみてください。
http://www.nicotto.jp/blog/detail?user_id=48178&aid=65274293
たしかにクリステヴァの数式とか
正直あんまり意味ないんじゃないか(。◔‸◔。)?
というのが多かったけれど
そしてダンナさんのソレルスの小説なんかも
なんだかなぁ(。-`ω-)ンーというのが多かったけど
それでもそこから何かのヒントを得て思考が刺激されたり
また彼女ら自身数式等からそういうヒントを受け取っていたんだろう
という側面はあったと思うんだよね。
ただ
今ニコ友さんやあるいは他のSNSの投稿なんかを見ていると
そういうものが必ずしも良いものとして認識されていないんだなぁ
という実感がすごくある。
物語であれ論説であれ
ものを書く人はみんな自分の意図を尊重しろと
自分が意図したとおりの意味だけ受け取れと
それが正しい読解でありそれ以外は「間違い」だと
迫られることが多いよ。
簡単に言ってしまえば時代が変わったのかもねw
そして私はそういう傾向は嗜好としてキライだw
上の本文の、★3:ポストモダン文化の背景:論理と芸術性の不可分なフランス文化
その三段目「…理論それ自体が文学的なレトリックや語法を内在的に活用することで、
創造的な新しい理論や価値の創出を行っていたのですね。」の後に。
他方、ドイツ哲学は、大哲学者カントの画期的な探求以来、フランス系との対比では、論理的思考を徹底的に追求するものだった。そして、カントの弁証論やヘーゲルの弁証法など、通常論理を超えた、論理の限界を追求する高次論理(メタ論理)を高度に洗練させた。フランス系思想とは逆に、論理の側から、芸術的な創造性へ接近する…という形で、論理と創作の不可分な関係を示しています。そして、哲学に関しては、フランス系よりもカントからヘーゲル、そしてショーペンハウエルやマルクス、ニーチェらに連なるドイツ系の哲学こそ、近代哲学の代表でもあり、科学・芸術・政治など様々な分野への影響も、フランス系とは別の面で大きかったのです。
しかし、近代的学の根本的な批判を含んだフランス現代思想からすると、特にドイツ系思考の代表のカントやヘーゲル、マルクスは、最大の論敵でもありました。しかし、それは単なる対立ではなく、ラカンやデリダ、そしてその後のジジェクらは、カントやヘーゲルの隠された可能性を、新たに発掘し活性化する、という点では、ドイツ哲学との格闘もまた、生産的なものでした。