珈琲を飲みながら、カフェの入り口を眺めると、お昼時を随分過ぎたのに、席が待つ人が通りにまで並んでいる。
「６月も終わりに近づくと、空いているんじゃなかったの」
　北鎌倉の駅を降りてから、敦子は何度も繰り返している。紫陽花で有名な寺を出てからは、言葉に含まれていた棘が、むき出しになっている。
「一枚も写真を撮れなかったわ。撮れないどころか、おばさんに、こんなに混んでるのに非常識って言われたわ」
「ごめんごめん。他にも紫陽花の名所があるみたいだから、行ってみようか」
「去年、混んでて写真を撮れなかったから、また来たんじゃないの。紫陽花とるだけだったら、鎌倉まで来なくてもよかったわよ」
「見頃も過ぎたし、平日だし、去年より空いているかなって思ったの。ここ、おごるから、機嫌直してよ」
「あたりまえじゃない」

　隣に座っているおばさんが、餡蜜を口に運びながら、遠慮のない視線を寄せてくる。他人の不幸は蜜の味だ。さぞ甘い餡蜜になっているのだろう。おばさんは、痴話げんかだと思っているだろうけど、敦子とはゼミも写真サークルが同じで、二人で行動する時間が長いだけで、おばさんが思っているような関係ではない。僕は、敦子のことは嫌いじゃないが、敦子には、そんな気は全くない。自分のことは棚にあげて、写真オタクは嫌いだと言っていた。
「内定でたの？」
　この時期の大学４年生の定番の話題だ。
「俺は、地元に帰るから」
「地元ったって、浦和じゃないの。四国や九州に帰るみたいな言い方しないでよ」
「市役所の一次試験にとおったから多分大丈夫だと思う。都市計画に関わりたいしね」
「確かに、日比谷ガーデンとか日本橋の再開発とか、華やかなデベロッパーより、地味な役場の人の方が似合ってるわ」
　今日の敦子は、デニムにチェックのシャツ、黒縁眼鏡にリュックサック、首からカメラをぶら下げている。秋葉にぴったりのいでたちだ。自分を省みずに、よく人を批評できる。
「敦子は、決まったの？」
　大手ではないけど、名前を聞けば、皆知っている会社の名前を言った。
「丸の内のOLというわけじゃないけど、会社は山手線内だし、上出来だと思っているわ」
　席が空くのを待つ人たちの視線が気になり、珈琲を飲み終わると、そそくさとカフェを出た。敦子は写真撮影の気分にならないらしく、そのまま、北鎌倉駅に向かい、私鉄に乗り換える敦子と品川で別れた。

　 卒業から１０年がたち、ゼミの指導教官が定年で退職することになった。退官の祝賀会にゼミの卒業生も招待された。教官と年齢の近い卒業生は幹事が用意した二次会に向かい、若手は同級生同士でばらばらになりめいめい居酒屋やBARに向かった。
「なんで、うちの学年、あんたしかいないのよ」
「32歳っていったら、会社勤めだと稼ぎ頭で忙しいし、結婚してたら出てきにくいんじゃない」
「私は、会社勤めで、結婚してるけど。恩しらずばかりだわ」
「眼鏡やめたの？」
「溢れるばかりの才能だけで魅力十分だけど、見た目で評価するバカが多いからね」
変わったのは眼鏡がコンタクトになっただけでなかった。上質なことが分かるノースリープのワンピースとディアドロップのネックレス。シンプルで飾らないのは学生時代と同じだけど、人の視線を意識した服装にかわり、そして、魅力的な大人の女性になっていた。
「黙っていたら、いい女に間違われるかもしれないね」
「誉め言葉かしら。綺麗になったねって素直に言えばいいんじゃない」
「馬子にも衣装だね」
「馬鹿ね、いつまでも子供ね。まあ、あんたといると気楽でいいけど。旦那と一緒にいると少し疲れる時があるのよね。いつも綺麗でいて欲しいんだって。家の中にいる時ぐらい、スエットでゴロゴロしててもいいと思うんだけど」

　敦子は、旦那が待っているからと、一杯目のワインを飲み終えると席をたった。今日は夏至だしと適当な理由をつけて、一人で店に残り、敦子の前では吸わなかった煙草に火をつけた。敦子と自分が結婚していたら、敦子は今でも眼鏡をかけたままだったかなと考え、久しぶりの再会の余韻にひたった。

　南浦和の駅を降りると、通り沿いに紫陽花が咲いていた。場所によって色を変える紫陽花に敦子が重なった。今も昔の敦子のままだった。見た目が好きだったんじゃない、敦子の中身が、存在が、全てが好きだったんだと気づいた。学生の頃に告白しておけばよかった、でも振られたよなと、酔いが回った頭の中で何度も考えた。２回目に月光院を訪れたときに告白するつもりだった。あの時も今日と同じように、梅雨の合間で晴れていた。雨が降っていれば、人もまばらで、告白できてたかもしれなかった。悶々とする俺とは関係なく、通り沿いの紫陽花は美しく咲き誇っていた。