３年前に亡くなったはずの母だった。
「この浴衣、似合っているでしょ。井ノ原のばあちゃんの形見だけど、明治に仕立てられた絞りよ。いいものは長持ちするわね。あら、時間ががないわ。夜明けには戻らないといけないの。羽田に向かうわよ、早く車の鍵をかして」

鍵を渡すと、母は運転席に座り、僕は助手席に座った。

「何よ、人の足元をまじまじと見て、太くて悪かったわね。付いているわよ。貞子も伽椰子にも足があったでしょ。足だけ無くす方が難しいわよ」

母は、アクセルを踏み込み、車を走らせた。

「これ、さっきの寿司屋で買ったお土産用のお寿司。好きなの食べなさい。羽田名物のアナゴに旬のカンパチも入っているでしょ」
「おなか減ってないし、寿司はもういいよ」
「普段、ろくなもの食べてないんでしょ。いいから食べなさい」

僕は、仕方なく、かっぱ巻きを口にした。そのとたん、また、目まいに襲われた。

赤羽の僕のアパートだった。僕は、パソコンに向かっていた。
「１０年後のあなたよ。仕事は続いているようだけど、まだ、独り身ね。盆休みなんだから、こんな小汚いアパートに一人でいないで、鹿児島に帰ればいいのに何やっているのかしら」

母は、白髪の増えた僕の頭越しに、パソコンを覗き込んだ。
「えーと、チョシャハツノホラーカキオロシ、マエガキモハジメテダだって。あほらし。数学はできたけど、国語は全然だめだし、漫画しか読んでなくて、日記帳も夏休みが終わるころに慌てて書いていたのに、４５歳になって、いまさら何やってんだか。それにしても、小学生が書いたみたいな作文に付き合ってくれているたまちゃんもさなちゃんも偉いわね。」

母は、カンパチをほおばりながら、一気にまくしたてた。

「あんたは、一人の方が気楽でいいと思っているかもしれないけど、そうじゃないの。一人だと、楽しいことがあっても、悲しいことがあっても、４０点から６０点くらいのことしか起こらないの。誰かと一緒だと、０点もあれば、１００点もいろいろなことを経験できるの」
「平均したら、一緒じゃないか」

「分かってないわね。人は計算機じゃないの。悪いことは忘れて、いいことは忘れないようになっているの。だから、つらいことがあっても頑張れるの。あんたの子供の頃を覚えているから、３５歳のおじさんになっても可愛く思えるの」
「俺は、５０点の人生でいいけど」

「あんた、この前、映画に行ったでしょ。二重螺旋の恋人。フランス映画なんて、あんたが見たいと思うような映画じゃないのよ。最近、映画なんてシンゴジラしか見てないじゃない。たまちゃんの日記読んだから見に行ったんでしょ。日記にコメントしようと思ったから、真面目に見てたんでしょ。普段のあんただったら、ホラン千秋に似た主人公の裸を見ることができて良かったとしか思わないわよ。それに、お腹が減っていたから映画館で食べようと、下のクリスピードーナッツで２個買おうとしたら、お姉さんに３個買うと５０円引きですよって言われて、ドーナッツ３個も買っちゃって。それで、隣の人が気になって１個しか食べられなくて、ドーナッツの袋持って地下鉄乗るも恥ずかしくて、結局、映画館で捨てて帰るなんて、何やってんだか」
「分かった、分かった」

「分かってないわ。共感が大事だって言っているのよ。誰かと、分かりあいたいから、前に進むことができるの。今みたいに殻にこもってたら、何も変わらないでしょ。それを、ひい婆さんも、義母さんも心配して、やってきたの。ひい婆さんにお守りもらったでしょ」
「あの人、ひい婆さんだったの」

「霧島神社は恋愛成就の霊験があるの。そういえば、さなちゃんは出雲大社に行っていたわね。出雲大社も恋愛成就で有名よね。さなちゃん、恋でもしているのかしら。そうそう、さなちゃん、ウォーキングしてたわよね。７年も続けていたら、広瀬すずのようになっているかしら」
「なんの話してるの」

「時間がないのに、脱線しちゃったわ。心の傷は、時間が癒してくれるの。そして、強く、優しくなれるの。だけど、あなたみたいに、傷つくことから逃げてたら、いつまでも、心は弱いままなの。そして、時間がたつほどに、孤独や疎外感で衰弱していくの。麻里子さんね、あの後、東京に出て、今でも一人よ。会いたいかどうかは、あなた次第だけど、お守りがあれば、きっと会えるわ。空港で働いているから。もう、夜明けね、じゃあね」

そう言うと、母は運転席から消えた。僕は、急いで、運転席に移りブレーキを踏んだが、赤信号のまま交差点に入った。幸い、早朝の発着便は少なく、羽田の道路は空いていて、無事だった。

僕は、道路わきに車を停め、煙草を吸った。うちの家系は、寿司が好きだな。好みもよく似ていた。あわび、うに、真子にかんぱち。煙草を吸い終え、ターミナルビルに車を向けた。

カーナビを見ると、走行履歴が映っていた。赤羽、練馬、等々力、羽田と都道３１１号を走っていた。通称、環状八号線。カンパチ。

6000字を費やして、このオチとは、怖いですね。寒いね。点と線、点と線