ゴタぴょんの日記 2015年1月13日(火)Ⅳ
- カテゴリ:日記
- 2018/08/28 18:56:05
1月13日(火)Ⅳ
Ⅲからつづく
西陣織は、5世紀~6世紀、
大陸から帰化した人々がもたらした機織り技術。
応仁の乱のあと、職人たちが、この地に住みつき
500年以上に渡って、織り続けてきた。
が、
江戸幕府の崩壊により、
将軍家や、天皇家のパトロンを失った
西陣は、急速に衰えた。
鉄道技術をイギリスから
導入しようとした日本は、その費用を
生糸輸出にかけたため、
たちまち、国内生糸が高騰し、
西陣では、多くの人が廃業に追い込まれることとなった。
そんな折、
中央政府の要請により、
京都府は、リヨンの織物技術を学ぶ
若者を研修生として、渡仏させることにした。
そのとき、選ばれたのが、3人の若者だった。
機械職人の吉田忠七は、
初め、織物職人ではない、との理由で
採用されなかったが、
織物職人から選ばれた、佐倉常七、井上伊兵衛ともに、
算術に暗く、筆道は、心がけなく候、との京都府の嘆願が、
政府に叶い、忠七は、
連絡役兼任研修生として、許可された。
機械職人だった忠七は、
ジャカードという機械のことを聞き及んでいたのです。
それは、自動的に、たて糸を引き上げるので、
複雑な模様織でも、ひとりで仕上げていける・・・
忠七は、かねてより、本物を見てみたいと
思っていたのでした。
そして、
明治5年11月、この3人の若者が、
神戸港から、フランスのマルセイユ
を目指して、出航した。
2か月後、3人は、無事、マルセイユに到着。
さて、着いてみると
日本で、学んだはずのフランス語が通じません。
たいへんだったと思います。
おそらく、当時のフランス語は、
北仏のオイル語、南仏のオック語が
まだ、色濃く残っていたのでしょう。
リヨンに到着したとき、
地図も、住所も、いい加減だったため、
すぐには、工場が見つかりません
でした。
彼らは、3日後、ようやく、
ジュールシスレー工場にたどり着きました。
そして、明治6年1月、研修が始まりました。
忠七らが、研修を受けることとなったリヨンの紡績工場には、
90台の機械が蒸気機関を使って、
一斉に稼働している様子に
圧倒されました。
忠七が、フランスから送った手紙が残されているそうです。
・・・・手わざの織物機械と申しましても、
わが西陣の在来の道具とは、
格段に違い、ひは引きとび、万事を尽くし、
織り方についても、よほど手早くできます。
また高機(たかはた)も、空引手は不要で、
一本の踏み機で模様織ができます。・・・
当時の西陣では、
たて糸の操作は、織物機械の高機(空引き機)の
上に、職人がひとり乗って、
下からの合図で糸を引き上げる
「高機 (たかはた)」
という伝統的な方法が続けられていたのです。
このリヨン製ジャカードは、
当時ベストセラーとなった『西國立志編』
(欺邁爾欺著 中村正直訳)に紹介されています。
リヨンの工場で、忠七らは、毎日、12時間働き続けました。
ところが、一向に、工場主は、ジャカードの操作を教えようと
しなかったのです。
研修期間の8か月も終わりに近づいた頃、3人は、意を決して、
自分たちで、ジャカードを買い入れて、
教師を雇って、学び始めました。
佐倉、井上は、織物技術を学び、忠七は、機械構造を調べ上げ、
細かい部分まで、正確に図面に写し取っていきました。
明治6年10月、3人は、ジャカードなど、10種類の機械を
日本に送り、帰国することになりました。
しかし、
忠七は、許可を得て、残ります。色あでやかな染色技術を
学んでから帰りたいという願いが認められたからです。
明治7年2月、忠七は、4か月遅れで、
フランス郵船「ニール号」に乗り込み、
帰国の途に就きました。
3月20日夜、明日は、いよいよ、横浜港。
船は石廊崎沖に差し掛かります。
そのとき、突然、海が荒れ始めました。
暴風と高波が襲いかかり、ニール号は座礁、沈没。
生存者は、90名中、わずかに4人。
忠七の名は、生存者名簿にはありませんでした。
佐倉、井上は、落胆します。
忠七がいなければ、どうしても、
ジャカードを組み立てることができないと言って嘆きます。
その2か月後、西陣に、ひと箱の荷物が届きます。
忠七が、別便で、マルセイユから送った身の回りの品でした。
その中に、忠七が、下宿先で、ジャカードの仕組みを丹念に、
描き写した機械の図面と、
紋凝り機械の図面2冊がありました。
その束は、厚さ3寸、10cmにもなったといいます。
忠七の図面をもとに、ジャカードは、無事、組立られました。
さらに、その年、京都御所で開かれた、
第3回京都博覧会にジャカードが出品されました。
また、河原町二条に作られた織工場で、
全国から集まった生徒に、技術が伝えられた。
明治10年、忠七と同じく、
西陣の機械職人だった荒木こうへいが、
これまでの鉄製ジャカードを、木製で作り上げます。
その木製ジャカードは、明治20年には、定着して、
国内最大の織物産地として、復活したのでした。
というよな話を、
お客様は、食い入るようにお聞きでした。
きっと、西陣降りを
おみやげに買って帰られるのでしょう。
Ⅴにつづく
ゴタぴょん