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杉田水脈の記事、「なにが問題なのか」について

最近になってまた杉田水脈の生産性の記事が話題になったので何事かと思ったら掲載誌の休刊になってその発端として杉田の記事に関する議論が再燃していたようです。

この件で杉田を擁護する人は決まって「なにが問題なのか」と聞いてきます。なにがって言われても色々あって、そのうちの一つとして「自然に訴える論証」という詭弁である可能性がある事は既に日記に書きました。可能性というと曖昧な表現なのですがそもそも杉田の記事の内容が私の知る限りでは非常に曖昧なので仕方ありません。というかこの「曖昧である」というのも重大な問題だと思っています。

記事のタイトルは「LGBT支援の度が過ぎる」というもので子どもを作れない人達に対する税金の使われ方について論じようとしていたようですが、「支援」とは一体なんの事でしょうか?

LGBT問題といえば同性婚不可の問題、賃貸契約の問題、病院面会の問題などがありますが、これらは昔女性には選挙権がなかったのと同じような権利の問題です。このような権利を認めて制度を変更するとしたら当然お金がかかります。お金がかかるから認められないというのなら権利獲得の運動をすべて否定している事になります。女性の選挙権もそういう運動が起こって権利として認める際にお金がかかったはずですが、これも否定するのなら女性である杉田は政治家をやめるべきでしょう。そうではなくて権利を認めるのに「度が過ぎる」ほどのお金がかかるのであればその根拠を示せばいいのですが、そのような言及があったという話を聞いたことがありません。

他に考えられる「支援」といえば「LGBTトイレ」でしょうか。確かにLGBTトイレについては当事者からも批判されていました。ただし不便だから批判されているのであって、子どもを作れない存在のためにわざわざお金をかけて作ったという意味合いの批判ではないはずです。

少数者あるいは弱者が感じる不便をなくし格差を解消する目的のもとで国の支援が行われてもよくて、そこに子どもを産むか産まないかは関係ないと思います。それでも「度が過ぎる支援」とはなにか?

タイトルにもなっている「度が過ぎる支援」がなにかを示さず、ただ子どもを産めないから税金をかけるべきでないというのなら、権利を求めているだけのLGBTの存在がまるで税金の無駄使いであるかのような印象を受けます。この点を考えれば杉田の記事は「差別の扇動」とされてもおかしくない事なのです。

杉田を擁護するなら「なにが問題(差別)なのか」を問う前に「なにが問題(度が過ぎる支援)なのか」を教えてほしいものです。





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