Nicotto Town


安寿の仮初めブログ


「飾り窓」と自由について その2


続きです。

  Some tourists think Amsterdam is a city of sin.
  But in truth it is a city of freedom.
  And in Freedom most people find sin.

  旅行者の中には、「アムステルダムは、罪深い街だ」と思う人もいる。
  しかし、実際は、自由な街だと言えるだろう。
  そして、多く人々は、自由の中に罪を見出してしまうのだ。

これはなかなか含蓄のある言葉ですね。

自由とは何か。
自由の中に、なぜ人は、罪や悪を見出すのか。

おそらく、その自由は、
お金によって得られる自由、
市場で買い求めることによって得られる自由であり、
お金さえあれば、誰もが市場で買い求めることができるがゆえに、
その自由は、共同体が大切にしていた価値や規範を破壊していくからです。
  
金の力で、なんでも好きに行えば、
多くの人々は、そこに罪や悪を見出すのです。

そして、多くの社会では、
罪や悪を減らすために、自由を制限する。
罪や悪を罰するように、一定基準を超えた自由を罰していくことで、
社会が良しと考える価値や規範を守ろうとするのです。

この捉え方においては、
自由と社会が良しと考える価値や規範は、対抗関係になります。
どちらかが力を持てば、どちらかが力を失う。
そういう関係です。

しかし、それとは異なる自由もあるはずです。

自由であるがゆえに、
社会の共通の価値や規範を皆が自由に考え、議論し合う。
そして、自分たちが決めたことを、自主的に守っていく。
このような社会共通の規範を皆が考え、
議論しあう文化や慣習のあることが
罪や罰を自主的に規制させていく。

ここにおいて、
自由であることと価値や規範を維持することは、
対抗関係になりません。

むしろ、自由であることが、
自分たちの価値や規範を自分たちで考え、決定し、
しかも、その決定を自主的に守らせる役割を果たすからです。

しかし、この自由のあり方にも、まだ問題があります。

この自由において、往々にして力を持つのは、
従来の価値や規範の正しさを主張し、
それを維持してきた主流派や多数派の人たちです。

そして彼らが、既存の価値観の訴求力や数の力で、
よそ者や少数者の意見を押し切り、
彼らを共同体から排除していく時、
共同体は、往々にして内向きに、
しかも独善的になっていきます。

ですから、少数派やよそ者に対しても開かれ、
彼らの声に耳を傾け、
その意見を進んで汲み取ろうとしていく共同体。

その結果として、共同体自身が、
新しい共同体のあり方を目指して、
自由に変化していけることが重要になります。

自由に変化していくことで、
より多くの人々にとって価値のある場所になっていく必要があります。

アムステルダムが、そのような街であるかどうかはわかりません。
おそらく、そのような街は、この世界のどこにもないでしょう。

ですが、自由でありつつ、
しかも、皆にとって価値ある共同体を目指そうとするのであれば、
このような街を目指していくべきでしょう、私たちは…。

アバター
2019/02/27 03:49
>うとうとさん

日本の場合、田舎暮らしを始めようとすると、
お付き合いが、お付き合いではなく、
強制だったりするのが難点ですね。

結果的に、それが地域の中ではなく、
別荘地への移住を選ばせることになっているのだと思います。
アバター
2019/02/26 12:45
昔の日本の村社会は、地域が価値と規範を維持していたような気がします。
その中で、子供たちは見守られ、安心してやんちゃに育つことができていた時期もあったでしょう。
が、今も田舎に残るこの価値と規範は、ご指摘のとおりの問題を露呈していて
過疎化に拍車をかけているように思います。
なかなか、自由であることと、規律や規範を維持することとのバランスは難しいです。




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