Nicotto Town



交響曲第5番

祐作はコートを枕にすると、桜の木の下に寝転んだ。川べりは寒いと思ったが、風もなく、上着を脱ぎワイシャツ姿が丁度いいくらいの陽気だった。腕時計を見ると13時30分。花見が始まるまで、5時間近く時間をつぶさなければいけない。

川にしなだれかかる桜は満開で、多くの人が桜を見ながら歩いていた。川に沿った芝生の広場は、花見をするグループや祐作と同じようにブルーシートを張り、場所取りをしているサラリーマンで一杯だった。

場所取りは若者ばかりだった。祐作は、今年、40歳になる。他の場所取りのサラリーマンには、会社で持て余されている社員と思われているだろうと思った。

祐作はイヤホンを耳に差すと、顔にハンカチをかけた。祐作は、投資銀行で金融先物取引のディーラーをしていた。トランプの対中貿易の強硬姿勢を読み間違え、10億の損害を出した。これまでの実績を考えれば、大きな損ではないが、会社のルールで一旦、ディールから離れた。

損失を出し、それを取り返すために冷静さを欠くディールで、さらに大きな損失を出さないようにするクールダウンのルールだった。その間、経済指標や世界情勢の分析して過ごす。前線から後方陣地に送還されるようなもので閑になった。それで、花見の場所取りを引き受けた。

イヤフォンからは、ショスタコービッチの交響曲5番ニ短調「革命」が流れている。劇的なカノンで始まるが、第1楽章から第4楽章まで、作曲家の激しく暗い慟哭に満ち溢れている。週末になると、決まってこの曲を聞いた。

サントリーホールに東京フィルの演奏会を聞きに行った時、隣の座席の若者が友人と話していた。
「今日、ショスタコの5番第4やるんだって。ミーハーだよね。」
「チャリティーコンサートだから、一般受けする曲をやるじゃない。」

それを聞いて、腹が立った。一番嫌いなタイプだった。相手を貶めて、自分が優位に立とうとする。観客やファンの間に優劣なんてない。曲と自分、演奏家と自分の間にしか関係はないはずだ。

祐作は、自分を認めさせるのは結果が全てと思っていた。ディールの仕事が好きだった。金儲けをしている感じではなかった。情報を集めて、分析して、予想し判断する。自分の力を試す戦場のようなものだった。

30代と比べると頭の回転するスピードは変わらないが、思考の範囲と体力が落ちてきた。40歳になり焦ったのが、今回の失敗の原因だった。ディールをするフロントから離れないといけない時期が来たのかもしれなかった。

ディールから離れると俺に何が残るのだろうと思った。結婚生活は2年で終わった。外資系投資銀行の肩書と年収を選んだ妻と、容姿に惹かれただけの自分の間には、些細な喧嘩をつなぎとめようとする絆は無かった。

「すいません。」
「はい。」
祐作は、起き上がり声をかけられた方を見た。隣で場所取りをしていた若い女性だった。

「トイレに行きたいんですけど、その間、場所を見ていただいていいですか。」
「いいですよ。」
「ありがとうございます。」

若い女性は、大きなバックを残したまま、トイレに向かった。トイレには長い行列ができていた。大きなバックを持ったまま、並ぶのは大変そうだった。バックには、宴会に使う道具などが入っているのだろう。

祐作は、寝転がったまま、本を読み始めた。小林一茶の「おらが春」。一茶の死後出版された句集。巻頭言の後に続く句から、句集の題名が付けられた。

「目出度さも ちゅうくらいなり おらが春」

ちゅうくらいは、北國街道の宿場町柏原の方言で、あやふや、いい加減という意味になる。意訳すると、目出度さも、あやふやでいい加減な俺の正月だと、幸福とは縁遠い自分の心境を語った句。

ディールの仕事を失うと、何も残されていない祐作は、桜を見上げながら、文字通り、目出度さどころか、あやふやな春になってしまったと感じた。

「ありがとうございました。」
「いえいえ。」

「本を読まれていたんですか。場所取りって、ほんとに暇ですね。いつの間にか何時間もスマホをいじってるので、場所取りも大丈夫だと思ってたんですけど、そうじゃないですね。ほんとは、友達も一緒に来る予定で、おしゃべりをしていればいいと思ったんですけど、急に遅くなると連絡があって、トイレにも行けなくて困っていたんです。」
「そうなんですか。」

「小林一茶を読まれていたんですか。私も好きなんです。『我と来て 遊べや親の ないすずめ』とか自分の境遇を重ねた句が多いですよね。母を亡くして継母と仲が悪くて、長男なのに奉公に出されるなんて可哀そうですよね。」
「そうなんですか。」

「江戸時代の奉公なんて奴隷と一緒ですよね。休みは年2日、40歳まで結婚もできなかったんですよ。私も30歳半ばまで、独身なんで、奉公しているとの一緒なようなものですけど。
「はあ。」

「花見の句もありましたよね。『ほくほくと 花見に行くは どなた哉』」
祐作は、頭をフル回転して、なんとか思い出した。
「我こそは 花の閂守 花盗人」

若い女性は、手を叩いて微笑んだ。
「嬉しい。一茶の連句を返していただいた方は初めてです。一茶すごいですよね。52歳で初婚、相手は、28歳の娘さんですよ。2万句以上作って、文字通り絶倫ですよね。」
「はあ。」

「他にも句集を持ってこられているんですね。お借りしていいですか。」
祐作は、与謝蕪村の句集を手に取って渡そうとしたが、止めて、読みかけの「おらが春」を手渡した。

「ありがとうございます。すいません、自己紹介が遅れました。」
彼女は、バックから名刺を取り出すと、両手で持ち差し出した。音無響子、証券会社のシニアトレーダー。そんな風に見えなかったが、積極的な理由が分かった。

祐作も、たたんでいたスーツのポケットから名刺入れを取り出し、一枚渡した。
「五代さん。同業者のようなものですね。よかったら、LINEのIDも教えていただけますか。お礼をします。」
LINEの交換をすると彼女から、信濃町の小林一茶の銅像の写真が送られてきた。

僕は、「よろしければ、こんど、お昼ごはんでもご一緒しませんか。」と返した。
彼女から、『春風や 牛に引かれて 善光寺』と帰ってきた。

しばらく、頭を抱えたが、思いがけないことで縁ができて、いい方向に導かれたという意味だろう。

「ごめーん」
彼女の方に女性が手を振りながら、近づいてきた。遅れてくると言った同僚なのだろう。僕は、彼女に頭を下げると、横になって、与謝蕪村の句集を読み始めた。イヤフォンを耳に差すと、第4楽章が始まるところだった。

第4楽章には、ティンパニの連打、金管の粗暴なまでのリズムからはじまり、弦楽器と木管の反復、希望が表れ、圧倒的なファンファーレで終了する。モーツアルトの再来と呼ばれていたショスタコービッチは、ソ連共産党機関紙「プラウダ」に「支離滅裂で音楽にあらず」と批判され、信用が失墜する。

交響曲第5番は、失意のショスタコービッチが復活をかけて渾身の力を込めた力作。それまでの苦悩をエネルギーに変えて人に訴えかける。曲の解釈は人によってまちまちだが、祐作は希望ともう一度戦う勇気が満ちてくるのを感じだ。

「ラ、レー、ミー、ファー」と主題が繰り返され、コンサートホールにシンバルが響き渡る。響子さん、いい名前だ。

https://www.youtube.com/watch?v=d_ZLitfxmqA

アバター
2019/07/18 07:56
clefさん
さすがプロのコメントですね。パウンドケーキはつまらなくて、クグロフと作ろうと思う感じでしょうか。音楽は、新しい曲を聞かなくなって、昔聞いていた曲を繰り返し聞いています。音楽は中学までしか習っていなくて、高校は美術を選択したので、基礎知識がなくて、難しい曲は理解できません。ショスタコの5番は好きです。
アバター
2019/07/18 02:53
ショスタコにめぞん一刻、小林一茶に株のトレーダー、ホントに目まぐるしく変わる
内容に、知識のデパートか!っと思わず突っ込みたくなりました(笑)
ふむふむ、乃木坂に欅坂、筋金入りのアイドル好きですねw

私が代わりに謝罪させて頂きます。
クラシックやってるプロ&アマは、どうしてもマニアックな曲を求めてしまいます。
よって世間一般に知られている曲を好まない傾向もあるかと。。。。。
偉そうに言ってるというよりは好みの問題なのかと認識しています…
変態に変態チックな曲聴くなぁ!と言う様なものかと思います^^;
実際、私なんかもアルバムの曲の中の誰もが知ってるメジャーな曲は
避けてマイナーな曲ばかり漁って聴くと言う傾向があるようです。

で、やはり作者沖人さんの好みが大いに反映された作品ですか?
若い女性と共通の趣味で意気投合、そこから恋の花が咲く春へと………?
この先この二人はどうなるのでしょうね~、上手くお付き合い始める
のでしょうか………気になるところですw
アバター
2019/03/27 07:41
さなちゃん
伝言板で、長くなったけど我慢して読んでくださいと書いたので、読んでくれたさなちゃんを褒めたの。
アバター
2019/03/26 23:50
自分で褒めてる?www
クラシックだけでなく、句集を読んだり先物取引とか全部沖人さんの趣味なのかとw
でもまぁ・・・すっかり忘れてたでござるよ(ノ∀`)アチャーwww
アバター
2019/03/26 23:33
Cherryさん
二人は小林一茶ファン同士です。一茶は子供を優しい目で見ていて、尋常小学校の教科書にも採用されました。そこのけそこのけお馬が通る、負けるな一茶ここにありとかです。趣味が一緒だと話が尽きないかも。
アバター
2019/03/26 22:32
ゆりかちゃん
二回も花見ができていいですね。美味しいものも二回食べることができる。音楽は、乃木坂とか欅坂系が好きなので、クラッシックはあまり詳しくありません。一度、僕が踊りながら歌うインフルエンサーを聞いてもらいたいものです。

環謝さん
いつも登場人物の名前は適当です。途中で登場人物の名前が違ってしまったりします。前回も桃子が桜子になったりしている。いつも読んでくれてありがとう。それだけで、嬉しいですよ。
アバター
2019/03/26 22:27
こんばんは。
今日は時間に余裕があってじっくり読めました。

祐作さんと響子さん、馬が合いそうですね!
アバター
2019/03/26 11:38
五代くんと響子さんなのですね(*´艸`)フフ
普段あまり私のまわりでは見かけない名前や言葉がいっぱい出てきます^^;
やっぱり沖人さんは 引き出しがたくさんおありのようで、ステキですね(*´∇`*)

気の利いたコメントは出来ないけど、いつも楽しく読ませて頂いていますよ♪
アバター
2019/03/26 07:57
おはようございます、沖人さん。

昨日は私もお花見でした。
まだまだ半分くらいしか咲いてなかったので、第二弾に期待です^^
沖人さんは、クラシックにも造詣が深そうですね。
「革命」ってどんな曲だっけ?と思い、聴いてみましたが、知らない曲でした。
あれ。元吹奏楽部なのに、おかしいな~;;

あ、以前の日記で書かれていた「めぞん一刻」からの名前でしょうか。
響子さんは初対面なのに、よくお話される女性ですね。
さしずめ小林一茶が恋のキューピットでしょうかv
響子さんのお返事の句は、どんな意味かな?と調べてみたら、
「善光寺近くに住むお婆さんが干していた布を、牛がツノに引っ掛けて逃げてしまい、布を取り返そうと牛を追うと、善光寺の敷地に入ってしまい、お婆さんもひょんなことから思わず善光寺詣でしてしまった」と。
うーん、これは五代さんのように頭を抱えてしまいますね。
響子さんはなかなか独特な感性の持ち主のようです。

でも、和歌で思いを伝えるなんて雅で素敵ですね(*^^*)
アバター
2019/03/26 07:11
さなちゃん
3000字よく頑張りました。ショスタコービッチの5番は好きだし、サントリーホールの出来事もほんとにあったことです。そのこと、8年前に日記に書いたけど、すっかり忘れてござるな。

たまちゃん
得意のイギリスには、中世のキャロル。話題のクイーン、ビートルズと大御所が。最近だと、ドモコのCMに使われたたまちゃん好みの超イケメン1Dがいる。大好きなロイド・ウェバーもイギリスだ。
アバター
2019/03/25 22:03
おぉ、今回はいいご縁が展開されましたねぇ!
私はいつも好きな曲ばっかり聞いてしまったりで、
知ってる曲が意外と少ないので、
もっと基礎的なところから頭に入れてみようと
ベートーベンの交響曲から攻めてみてます
(モーツァルトは数が多すぎるので回避)。
ショスタコは全然知らないんだよなぁ。こちらも今度手を出してみよう!
アバター
2019/03/25 21:09
全部沖人さんの趣味ですか?w
最近クラシック音楽をゆっくり聴く時間を持ってないことに気付きました(ノ∀`)アチャー
YouTubeで小フーガの演奏は見ましたが、いつも指の動きに感心してしまいますw
アバター
2019/03/25 15:08
メンテ明けでスマホからなのであとで出直しますw




Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.