自作小説倶楽部8月投稿
- カテゴリ:自作小説
- 2019/08/31 23:52:15
カブトムシの森
コツン、と音がして千佳子は目を覚ました。玄関のドアを見るが、しん、と静まり返って動く気配は無い。少しして、それがベランダのガラス戸に何かが当たった音だと気か付いた。鍵を外して戸を引くと、夜風が千佳子の頬をなで、遠くで車のクラクション音が響いた。
ベランダには黒いゴミ袋がでこぼこした影を作っていた。その一つの上で何かが動く。
そっと、覗き込むと、それが小さな体に比べれば大きくて長い角を持った虫であることに気付く。
「かぶとむし」
ぽつりと口から音がこぼれる。
いつだったか、おじいちゃんの家にいた時、遊びに来た男の子が教えてくれた。
あの男の子は誰だったのだろう。
少年は虫かごからカブトムシを取り出すと、角に糸を結わえ、縁側でマッチ箱を引かせ始めた。
カブトムシは子供たちの存在に気付くこともなく、縁側を這ってゆく。少年がマッチ箱に小さな消しゴムを入れる。カブトムシの速度は遅くなったが、マッチ箱を気にかける様子は無い。
「この、おもちゃはどこで売っているの?」
当時の千佳子に昆虫という概念は無かった。虫嫌いのママはそうしたものを自分の生活空間から徹底的に排除した。田舎にあるおじいちゃんの家に来たのは千佳子を迎えに来た時だけだ。
少年は困惑したようだった。
「これは、おもちゃじゃないよ」
「こうして遊ぶものでしょう?」
「これは生き物、虫だよ。カブトムシ」
その時、千佳子は初めてその名前を知った。
少年は次の朝、千佳子を森に連れだした。導かれるまま木々の間を歩いて、一本の大木の前で少年は上を指さした。
「ほら、あんなふうに生きているんだ」
千佳子の背よりはるかに高い幹の一か所にカブトムシやほかの虫が群がっているのが見えた。
「こういう森や山があの虫たちの本当の家なんだよ」
そして少年は持ってきた虫かごを開けた。少年のカブトムシはブーンと音を立てて、飛び上がると森の中に消えていった。
ジャムの空き瓶の中はいかにも狭そうで瓶の縁でカブトムシは何度も前足を滑らせる。
どうしてこんな場所に、カブトムシがいるのだろう。外には森も山もない。人工の光と音に満ちている。
もしかすると、千佳子の知らないところに森があるのかもしれない。ママは千佳子に一人で外に出ることを禁じた。心配性のママ。ママは千佳子のママだから、千佳子はママを忘れたりはしないのに。
どうしても森の緑が見たくなった。それに、このカブトムシを森に帰してあげなくちゃ。
鍵を外し、ジャムの瓶を抱えて、そっと外に出る。裸足のまま。千佳子が外に出たのはずいぶん前だ。今の千佳子は靴を持っていない。
マンションの外廊下は少しざらつくコンクリートでできていた。足音を忍ばせて、マンションに連れて来られた時の記憶を頼りに歩きだす。人影はなく、頭上の蛍光灯で小さな羽虫が音を立てた。
廊下の突き当りには光沢のある茶色の扉があった。
そうだ。この中に入って、ここまで来たんだ。
ママに手を引かれ、箱に運ばれ、何も考えられないまま。虫かごのような部屋に閉じ込められた。
足がすくむ。
また、閉じ込められるかもしれない。
どうしていいのかわからないでいると茶色の扉が開き、目の前に知らない男の人が立っていた。
「どうしたんだい? こんな時間に」
男の人は笑顔を浮かべようとしたが、千佳子の裸足の足と痩せた身体を見て目を険しくした。
「どこの子だ? 学校はちゃんと行っているのか」
それから知らない大人が千佳子を取り囲み。よくわからないことをたくさん聞かれた。しばらく白い部屋に優しそうなおばさんと一緒にいた。
千佳子は、今、何人かの大人とたくさんの子供たちと一緒に暮らしている。
ママとはしばらく会えないと人に聞かされた。
カブトムシはいつの間にかジャム瓶からいなくなっていた。
本当のお家、森に戻れたのだと千佳子は思うことにしている。
千佳子自身はまだ、自分のお家を見つけられないでいる。
放置虐待だったのかな。
カブトムシさんに救われてよかったノノ
あるいは少女のほうが悲惨……
何やらこわい世界
保護されて良かった。