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交流、、、徘徊?


1991―躁転~うつ

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長女を出産したカヨ(以下、家内)さんは、里帰りをしました。マモは週末、義務的に見舞いに行くも、やはりうつ状態のままです。ひと月後、父が車を出して、家内とウタとを迎えに行きました。母の里経由で帰ったので、祖母、ウタにとっては、(ひい)婆ちゃんに会わせることが出来ました。

 当初、母(以下、婆ちゃん)に入浴を頼んでいたけれども、家内の意向でマモが、お風呂へ入れることになりました。その頃から、気分がよくなり(ひつじ)年を迎えると、ほぼ躁転。父の実家の福島へついていき、大はしゃぎのマモ。帰りはレンタカーを借りて、いわきで一泊までして…。

 復職の話もボチボチあり、復職の診断書を書いてもらうことになりました。主治医の秋山先生は、虐待の専門のため、躁状態の扱いに精通していなかったのか、また、はしゃぎまわってしまったマモ。復職し、とりあえず担当を待たず、課員の文書や見積書をワープロでおこすVDT作業員に徹していました。

仕事のほうは、これで良かったのだけれども、わがマモ家に騒動が起きました。バブル崩壊の波は、父の工務店にも及び、倒産への話を聞くことになりました。名前だけの取締役にマモの名を使っているらしく、家内の実家に身を置きながら、アパートを探してほしい、と言われました。トランクルームに荷物を置いて、カヨ宅に世話になりました。引っ越しは莫大な力を必要とします。おそらく、躁状態だからできたのでしょう。と言っても、この頃の記憶があまりないのです。お義父(とう)さんと飲めばいいものを外で飲んで、朝帰りをしていたような…わからない。

毎週末、アパート物件を見て回り、また、引っ越し。エネルギーを使い果たしたマモには、うつへの道が待っていました。部長より、あやふやな立場からはっきりした仕事をしては、と提示された、一課の製品の出荷の指示をする担当につくことになりました。

うつ状態のマモは、電話がこわく、また、NECの端末N5200に向うも、処理ができない。ウタの一歳の誕生日を過ぎると、また、出社拒否へと…。

 

この休職が、有効になったのが、退社後申請した障害厚生年金です。

 

つづく…?




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