谷戸坂から ーつれづれ その1
- カテゴリ:日記
- 2019/10/06 08:32:07
最近 太古の「ヤト」という言葉にこだわっている
きっかけは、「谷戸橋」を思い出したことにある
谷戸橋は横浜市中区にある橋なのだが
地図を調べると「谷戸坂」がある
そうだ!なんで谷戸坂を思い出さなかったんだろう
遊び場だった懐かしい坂
八重桜を観た
氷室を探しに行った
友達の家があった谷戸坂
今、グーグルでみると
観光化がすすみ見知らぬ坂の風景になっている
きっかけをくれた翔(うさぎ)さんからは
次のきっかけ「ヤト神」という縄文期の女神の名前がくる
そうそう「ヤト」と「ヤツのトベ」を
調べるのまでほおってある
生れた土地の「ヤト」と今まで結びつかなかったことに驚く自分
谷戸坂は昔から氷室があるくらい寒い場所だ
「冷えが身体に入ると風邪を引くから行っちゃいけないよ」
と、祖母がいいそうなセリフが浮かぶ
「縄文期に隆起した台地とその台地から流れてくる石が砂になり
大きな「さし」(砂の道ー天橋立の向こう側に着いていない形です)ができた
その「さし」が海に突きださずに
深い入り海になっていた入り口に海と平行に作られた
入り海側には海と直角状にできた元浜【現在の元町】があり
対比させて
海に平行にできた浜ー横浜ーと言ったのが
横浜の地名の由来となっている
そのさしをつくった川は何万年?もの時間をかけて
谷戸坂のある台地の地下水になっている
だからだろうか
わたしが生れた土地は地下水の豊富な土地で
地下水を蓄えたプールで夏休みの毎日を過ごした
山手には上下水道が早くから引かれ
町では誰でもが使える2台の手押しポンプの井戸があり
生活水として使用されていた
子どもたちは自宅に戻らず
遊びの途中で水をのませてもらった
谷戸坂は隣町にあり
町境に「お寺の山」がある
手押しポンプの井戸があった「お寺の山」は
「増徳寺」という名前だったことを
今回初めて知った
「お寺の山」は、
人家が数軒と小さな畑のある小さな丘だった
お寺の跡を偲ばせるものは
「お寺の山」の造りで鐘楼跡の石垣と
二本の大きな銀杏の木だった
その寺が関東大震災で壊れて引っ越してしまったことなど
子どもの頃は知らない
「お寺の山」の縁を人が使わない草の道を
秘密の道を歩く探検家の気分で歩いた子どもだった
その草道を抜けると谷戸坂の途中に出る
谷戸坂には今でも「ニチレイ」日本冷蔵がある
「ニチレイ」は機械製氷を日本で初めて行った会社で
大きな貯水槽と氷室を持っている
横浜は慶應3年に外国と居留地契約を結んだため
その境石がある
「お寺の山」はその境石がふたつも麓にあるいわば境界の地だ
「お寺の山」の隣地は
「新山手外人墓地」「居留地住宅」「外国軍部」であったから
家人は足を踏み入れてはいけない場所と子どもに教えていた
谷戸坂をはさんで
今では港の見える丘公園に上る「フランス山」や
「アメリカ公園」ときれいな公園になって
たくさんの観光客を迎え入れている
そういう地理的条件と社会的事情が入り混じって
「お寺の山」で遊ぶのは親に知られたくないことだった
幼馴染と話題になるのは
銀杏の木が自然に倒れたときの轟音ぐらいなものだ
行っちゃいけないという、すりこみがあって
「ヤト」と「谷戸」が結びつかなかったのだろうか?
「谷戸橋」は「前田橋」とともに江戸時代に埋立地となった側に渡る橋で
ヘボン邸跡などがあり、
他は敗戦後の駐留軍の倉庫が立ち並び、
かまぼこ型の兵舎につながるクローバーなどが生える草原だったので、
自転車の練習や男の子たちのローラースケートのかっこうの遊び場だった。
もちろんGHQを恐れた敗戦時代だったから、
遊びに行ってはいけないと言われたが、
そこで出会う外国車や流れてくるジャズや
女性の自由で軽やかなワンピースやサングラス姿は魅力的だった。
「谷戸橋」は新しい知らない時代への道であり
「谷戸坂」にはないものがあった
続けられるかな?一応、そのⅠにしておこう
書いておきたいもの
探検ー敗戦と薔薇とタイル
霧の台地と谷ー怖い石の話
谷戸と古代地名とヤト神
谷戸は地形のことですね
見に行ってみたいなあ
清水谷戸隧道
「谷戸」は関東に多いと言われています
鎌倉は「ヤツ」が多いのはなぜかと考えると
地震や津波や山の変化で
地形がゴロゴロ(ものすごい長い時間を単位として)変わるため
人間が住みにくかった分
地名の呼び方に変化が少なかったのではないか?
という大潮独自の勝手路線解釈をしています
源義経が鎌倉入りを許されず
腰越で待たされたとき
腰越と鎌倉の間は海だったとあります
地質もはっきりと違う質である調査結果もあります
鎌倉は谷戸だらけだから
谷を利用することに長けているんですね
鹿児島でも谷を利用しているなんて
なるほどなあ
カタカムナ文字面白いですね
明治時代に作られた磯貝式速記文字は
カタカムナ文字を参考にしたとありました
シンプルな形と合理的な構成
これを使っている(かどうかは不明ですが)
縄文期は大変大きい底の深い文化であっただろうと感じます
言葉や文字も現在よりも優れた機能性を持っていたのではないか
「群れる」から発展した「村」の言葉を見ると
現代の感覚では原始的なものを感じるのですが
「ムレル」という言葉自体が違った用い方、思想性を持っていたのではないか
と発想が拡がって行くのが
楽しいです
清水谷戸隧道は東海道線最古のトンネルで東戸塚〜保土ヶ谷間。谷戸は地形のことでしょう?相模と武蔵の国境、ことに鎌倉には谷戸だらけ。で、鹿児島にも特に鎌倉時代に下向してきた豪族は谷戸に城や寺社を作っています。
なんか面白い、、
カタカムナとかも、関係してるのかしら?
水の湧く谷、、女性ぽいですよね、、
そう?うふ
ありがとう
「ヤト」は「ヤツ」の「ト」であり
「ヤ」水の湧く「ト」谷の入り口ではないか?
横浜は縄文期の貝塚がザクザクでるところで
たくさんの縄文人がいたであろうと推測されます
比較すると
「イワト」は「イワ」の「ト」で
岩山の入り口ではないか?
では上記の考えで「ヤマト」をいうと
「ヤ」水の(ある)
「マ」大きい
「ト」台地
となります
だから
日本列島と訳しても当たっていそう
万葉集語録でも見直してみたいな
縄文言語はいろんな説が唱えることのできる分野だから
今のうちに言いたいこと書いちゃえという感じですかね
「ヤツ」が「谷」を指し
「ト」は住宅や人の住む場所を指す
「ト」をまとめる人間が「トベ」
「ベ」は何かわからんが
「トベ」が「女性首長の職名」であることは古文書の伝承に数々ある
良く言われるのが「ナグサトベ」「オオヤマダトベ」
アマテラスが出てくる前の日本列島の女性首長だね
谷が「ヤツ」=水の多い?広い?場所ならば
「ヤト」は単に谷ではなく
トベ(女性首長)がいるヤツ(谷間)ではないか?
しかし、調査は進まず
手がかりもなし
「ヤツ」が「谷」をさすという説はあるんだけど
「トベ」がいた「谷」というのは大潮の独自路線です
説明になっていませんが
ヤト、、、不思議な響きがあります
間にマが入ると、ヤマトですね