Nicotto Town



食品ロスはなくさなければならないのか

読まなくていいやつです。






読んでもいいけど








社会的テーマとしてホットな話題なのですね。

食品ロスはもちろん無くなった方が良いですね。ただ食品ロスを無くすということが、社会問題にコミットする意識として語られてしまう時、わたしはとても違和感を感じてしまいます。

結局それはボランティアの自己目的化なんかと同じでしょう。ボランティアはあくまでもボランティアを受ける側を慮ることに立脚するのが本来なのですが、ボランティアに参加する自分、という自己認識の満足にテーマがすり替わるのは往々にあること。社会問題アプローチとしての食品ロスを無くそうという発想は、なんだかそれに近い気がします。

問題なく食べられるのだから、当然食べる。
捨てる意味がわからない。

それが当たり前の感覚として備わっているのが本来の話であり、食品ロスを減らすという社会問題を解決するというスタンスでものが語られるのは、根本的にダメなのではないかな、と。
食べられるけど期限が近いから安くなってる、あらお得!だから食べる。そういう感性の副次的な結果として食品ロスが減る、それ以上でもそれ以下でもないのが本来の有り様で、そうでないとこのテーマは一過性のイベントや、ただのビジネスネタとして消費されてしまう気がします。

これは文化の問題なのだと思います。

文化とは何かは、一義的に決め辛いものです。ただその時代の生活者としての節度と、そのための想像力の持ち方のこと、という見方もできるかなと考えてます。

早く安く綺麗で質のいい新築の戸建が欲しい。でも真っ当に考えれば、そんな都合のいいものがあるわけがなく、だから住宅サプライヤーは土地を極限まで細切れにして、部材や什器を標準化するためにほとんど同じデザインの家を量産し、見えにくい部分の品質を落とし、そうやって一軒あたりの売価を落としつつ新築であるという価値の一点突破で大量に捌き、利鞘を儲ける。ビジネスとして当たり前のことともいえますが、しかしそれにより不具合があれば買主は文句を言う。でも、それはお門違いというものです。早く安く綺麗で質がいい家に内在する問題や課題へ思いをはせる節度を欠落させてしまったのであれば、そのリスクは負うしかないはずです。
もっと言うなら、その新築欲しさの裏で使える空家が大量に発生し、残されたわずかな山林が供給過剰な新築住宅のために消えていくことも、おなじレールに乗った話です。

寿司屋で寿司を食べながらスパゲティとパフェを食べられる回転寿司は大盛況です。何をどう食べようが、自由といえばその通り。しかし、そのめちゃくちゃな食べ合わせは確実に味覚を鈍らせ、そこに疑問を持てない感性は、親から子へと引き継がれていくはずです。

文化は変わっていくものであり、守らなければならなくなった時点で、それはもはや文化ではない、私はそう思っています。であれば、寿司を食べながらパフェを食べ、一緒にマンゴージュースを飲みながら〆の魚の粗煮を食べるのが今の食文化なのだ、食い合わせが云々などは過去の文化でしかない、ということなのでしょうか。

私はそれは違うと思う。

変わるということと、文化の持つ本質的な節度感を失うことは、まったく別のことではないですかね。和食には和食の食味というものがあり、それを前提とした調理や味付けがなされ、そしてそれは決してパフェと一緒に食べることを想定していないはずのものです。
想定していなかったことが想定内になることが文化の変化だとは言えますが、これは文化の変化なのでしょうか。

横浜にカジノを。神奈川県知事、横浜市長共通の方針です。財政的に苦しい横浜市にとって、カジノで大儲けしたいと言うのは、そこだけを考えれば分からなくはありません。ですが、それに対する批判がギャンブル依存がどうとか治安がどうとか言うのは、完全に問題の本質からズレている気がします。
昨年の市長選は、現職の再選となりました。以前も同じことをここに書いたので繰り返しになってしまいますが、その時の対立候補であったある若手候補者が、非常に重要なことを自身のブログで語っていました。

グローバル都市の横浜にカジノを誘致して街を活性化させましょう!っていう、なんかその発想がダサい、横浜がダサくなる、と。

まさに私の違和感の本質をズバリ言い当てた一言です。以前、ダサい社長が企業を潰す、というタイトルの本がありましたが、カジノとかダサくね?と思うことのできない感性、それは節度のない新築戸建てへのこだわりや、寿司を食べながらパフェを頬張る食味への無頓着と、とても近いところにあるはずです。
それ違くね?と物事の本質的な部分を感覚的に捉えて言える感性、想像力。わたしはそれが文化なのではないかと思います。

里芋の煮っころがしに、チーズをのせてオーブンで焼く、という調理があったとして。そこに里芋の煮っころがしが持つ本来的な食味をスポイルすることなく、あたらしい味付けの方向性が打ち出せていたとしたら、それは文化の変化であり創造なのかもしれません。しかし、そんなものとは無関係に、食いたいからと寿司とパフェとマンゴージュースを同時に口に入れ、そこに何の疑問も持つことができない想像力の欠如は、文化の変化でも創造でもなく、単なる文化の喪失でしかありません。

食べられるから食べる。その当たり前の感性が発動されないことは、そもそも人が生きていくことそのものの喪失かもしれません。




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