打合せが終わり、訪問先のビルを出ると小雨がパラついていた。傘を持ってこなかったので、近くの喫茶店で雨宿りをすることにした。店内には観葉植物が飾られ、革張りの椅子と無垢の木のテーブル、その上には灰皿が置かれ、昭和の香りを色濃く漂っていた。

マスターに深煎りモカを頼み、煙草に火をつけた。鞄から本を取り出し読み始めようとすると、店内のBGMから懐かしい音楽が流れてきた。シンディ・ローパーの『Time after taime』。
https://www.youtube.com/watch?v=VdQY7BusJNU

シンディ・ローパーは、幼い頃から歌が上手だったが、学校になじめず家で歌ったり、絵を描いたりして過ごしていた。17歳で高校退学し、家を出て、ウェイトレス、呼び込みなどをしながら定職にも就かず、無目的に暮らしていた。

日本食レストランの日本人女性に会い、「それじゃだめだから、私の店で働きなさい」と言われ、アーティストとしてデビューするまで励まされ続けた。

それ以来、彼女は大の日本好きになる。コンサートに来日した日、東日本大震災が起こった。福島原発の危機的な状況からレコード会社や知人から帰国を促されるが、彼女は、こういう時だからこそと歌う。

翌年、オフを返上し、石巻を訪れ、津波で壊れたピアノを購入・再生し、中央病院に寄贈する。小学校を訪れ、再生のシンボル桜の苗木を贈り、子供達にデビュー曲、『Girls Just Want to Have Fun』を歌った。

煙草の火を消し、珈琲を口に含んだ。モカ特有のフルーティーな香りが漂い、強い酸味が舌に残った。BGMから、また、Time after taimeのメロディーが流れ始めた。オリジナルと違って、アコースティックで穏やかなメロディー。
https://www.youtube.com/watch?v=vdQd6SVK0Fw

ノラ・ジョーンズのカバーだった。東日本大震災の2週間後、コンピュレーションアルバム『Songs for Japan』が販売された。世界4大メジャー・レーベルが共同し、ジョン・レノン、ボブ・ディラン、レディー・ガガ、ビヨンセなど38曲の楽曲がiTunesで配信された。

レコード会社、音楽出版社、アーティスト、アップルは印税や手数料の対価を取らず、収益は全額、義援金として日本赤十字に寄付された。アルバムには、ノラ・ジョーンズも『Sunrize』の楽曲を提供している。

1980年代のポップで力強いシンディ・ローパーの歌声、2000年代の柔らかく癒やされるようなノラ・ジョーンズの歌声、好みはあっても優劣はない。バッハとガーシュウィン、ダヴィンチとルノアールがともに素晴らしいように、芸術は新しい方が優れているわけではない。各々の時代を極め、その時の空気を反映している。

科学は、好き好きではなく優劣だ。ニュートンとアインシュタインを比べたら、相対性理論の方が緻密に現象を記述する。科学は先人の知恵を踏み台にし、一歩ずつ進歩していく。いつか、医学の力で新型コロナに打ち勝つだろう。

昔の自分と比べて、俺は成長、進歩しているのだろうか。何も変わっていないかもしれない。ノラ・ジョーンズのTime after timeが終わると、健介は開いていた本のページを閉じた。KCコミック完全版第8巻『ちびうさ絵日記第３話：虫歯にご用心！』