脳死について2
- カテゴリ:サークル
- 2020/06/18 18:00:09
脳死について
前回の日記にも書きましたが、脳死というのはスピリチュアルの視点から見ると、死ではないということ、脳死の判定を受け人工呼吸器を止めて臓器提供をすることも、臓器提供を受けることもカルマになるということを学びました。
机上でこうやって文字にすることはできても、実際その立場になったら。身近な人がその大きな試練と向き合っていたら。
もし自分の子供が脳死状態におちいり、延命装置で安定した状態が続いたら?しかしそれを維持する金銭的な問題を抱えたら?そんな中臓器提供を待っている人の情報が耳に入ったら?
逆に自分の子供が病で臓器移植を提供してもらう以外に生きる望みがないと医師に言われたら?
…何度想像しても、答えなんて今出ません。自分を納得させるための逃げ道を見つけようとしてしまうかもしれない…と思いました。
そこで少し見方を変えてみました。
日本において臓器移植は生体臓器移植が圧倒的に多く、脳死状態での臓器移植は極めて少ない。
では、各国/宗教上において、脳死・臓器提供はどのように考えられているのだろうと思い、調べてみました。
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アメリカでは、年間約1万人が死後に臓器提供し、2万件を超える臓器移植が行われています。また、イギリスやドイツ、フランス、スペインなどの先進国でも、臓器移植は一般的な医療として定着しています。
一方、日本では、国内での移植に限ってみると、脳死後、心臓が停止した死後の件数を合計すると、1997年から2018年12月までの約21年間に5,200件の移植が行われています。このように、日本の臓器移植件数は、アメリカやヨーロッパの諸外国と比べて格段に少ないのが現状です。
その理由として日本では、法改正後も脳死後に臓器を提供する場合に限定して脳死は人の死とされますが、世界のほとんどの国では、臓器提供とは無関係に、脳死は人の死として認められている〜略
(※公益社団法人 日本臓器移植ネットワークHPより抜粋)
2015年のデータだと、100万人あたりの臓器提供者数は
1位スペイン39.7人
2位ベルギー32.4人
3位アメリカ28.5人
フランス、イタリア…と続き、
お隣韓国は10.0人
中国2.0人
日本0.7人
日本、格段に脳死臓器移植の件数が少ないです。
日本と欧米では「人の死」において文化的な違いがある。
キリスト教徒は,人間の本質を,精神(魂)という内的実体に求め,脳死は精神活動 の終わりと考え、受精は魂(精神)が受肉する瞬間として捉えている。従って、 脳死状態においては,人としては無価値な肉体だけが残っているのであるから,そのような魂の抜け殻からの移植は是認され得るということになる。
1990年にローマ法王・ヨハネパウロ2世が「臓器提供は愛の行為である」
2008年ローマ法王・ベネディクト16世が「慈悲心を証明する特別な形式」と言及
2000年12月と古いデータになるが、日本の仏教者の方が"脳死臓器移植について海外の宗教界はどう考えるのか"をテーマに欧州とアジアを実地調査した時の論文を読みました。
・スウェーデン プロテスタント・ルター派
神学校の学部長→「医療の一つとして考えているだけ」
・アメリカ コロンビア大学ユニオン神学校の教授→「善と悪の面があるが、善の部分の方が多い」
この場合の
善:病に苦しんでいる人を救うのは尊い
悪:いのちの支配、臓器売買
・台湾 1989年人体組織移植法
道教系の病院の院長「仏教徒としても誇りに思う」
儒教はやや批判的、仏教と道教は賛成派が多い「臓器を病に苦しんでいる人に与えることで最後の布施ができるのです」というコメントも
・韓国 仏教界→「臓器移植は布施でも最も崇高なもの」
※韓国では1995年にキリスト教徒が仏教徒の数を超えた。
キリスト教に比べ仏教は社会的実践の場が少なく、臓器移植を勧める動きは広報活動の一部だ、と推測する人もいる。
・タイ 仏教界→臓器移植に非常に積極的。仏教文化の布施の精神が徹底しているから?
一方で日本全日本仏教会は2006年に臓器移植法改正問題に反対する声明を出している。
「〜中略〜脳死判定のあり方も含め、科学的、医学的、法律的、倫理的諸側面において、社会的合意が成立するまで検討を重ねられますよう 強く要望いたします」
なぜ同じ仏教界で隣の国同士でこんなにも違うのか?
日本では今日においても三徴候(心肺両方の停止、瞳孔が開く)が"人の死"として自然で受け入れやすく、生死観に合っている。
日本人は死んだ後もなお、遺体に傷をつけたりすることに抵抗がある、という文章も目にしました。
死の定義を変更してまで臓器移植を勧めたい?
臓器移植推進を信者獲得(だけではないけど)のために利用するのはもちろん、おかしなこと。
そして、人の死を人が判断して決めることは、やはりおかしい…命に優劣をつけているように感じた。助かる見込みのある命に希望をかける?見込みがない方は諦めろって?
脳死判定を受け臓器提供する側、臓器提供者を待つ側、ないしその家族。自分がどちらの側に立たされるかによって、思い悩む内容は変わってくるだろう。
この、脳死は人の死ではない、臓器移植はカルマになるという事実を知る前までは、臓器移植を受けるということに何の疑いもなかった。
脳死について詳しく知らなかったというのも大きい。
海外では脳死状態の妊婦さんが赤ちゃんを出産したケースもあったそう。
それでも脳死を人の死と言えるのか?
無知とは…。改めて今回身と心が引き締まりました。
日本は臓器移植後進国と言われており、臓器移植を増やそうという動きがある。
人は寿命を決めて生まれてくる。臓器提供を待つというのは、言葉を変えれば人の死を待つという状態。"脳死"という医学界の定義によって人の死を早めてまで自分の命を延命したい…文章でこうやってみると、カルマだよな、、。でもさ、でもさ。書いていて辛い。
今回いろいろ調べてくうちに辿りついたある日本人のお坊さんがいます。
このお坊さんは、娘さんを交通事故で20歳という若さで亡くされ、それ以降ずっと「いのち」について考えていらっしゃるそうです。
元々は、物理を教えている教師でもおられる方です。
この方が脳死についての考察の中で、
臓器提供を考える側の家族と、臓器提供を受けたい側の家族とでは
"家族の死を時間をかけて納得して受け入れたい"
"一刻も早く臓器移植をさせてあげたい"
という反対方向の要請が存在する、と考察されていて、なるほどその通りだと思いました。
さらに「医療界の動向のなかで、脳死患者だけが死を急がされるという特異な雰囲気に包まれているのは、移植医療先導型で脳死の位置づけが考えられてきたからです。臓器移植の必要がなければ、「脳死は人の死」などと無理に決める必要はないはずです」とおっしゃっており、とても共感しました。
脳死、臓器提供の問題はとても難しく、今回いつも?)うまくまとめられていません。
このお坊さんが論じられた脳死の考察について、興味がある方は読んでみてください。
江角弘道さんという方です!
スピ的に論じてなくてごめんご!
調査よ、そう、これは調査なのよ( ˊᵕˋ ;)
(依存やばいw)
日本人が 遺体にも敬意を払うのって海外の地震被害に救援隊を送った時によくわかるよね。
なるほどなぁそれが脳死の場合にも当てはまるのか。
家族で移植を受けたい人がいる場合と、逆の立場の違いもわかりやすかった。
みんな同じように悩むんだろうな。私もそうなると思う。助かるならなんでもするって思っちゃうもん。
本当に亡くなった時の思考にスピリチュアルを当てはめて立ち直りが早いだろうっのが今の状況だな。
実際にその状態のままではきっと やれることはなんでもする!スピリチュアル関係ない!ってなってしまうかもしれない。。。難しい話だよぉ。