Nicotto Town



随想 阿部薫



不世出という言葉がふさわしいアルトサックス奏者、阿部薫。
前衛やフリーをまとめて聴きたくなることが年に何度かあり、
デレクベイリーを数枚聴いた後で阿部を聴いた。うーん、やはり好きだ。

昨年も大友良英監修の阿部に関する本が出版されたり、
未発表録音のCDが出たりしてるので、未だに忘れ去られてはいない。
但し万人に勧められる……というより、万人が必要とする音楽ではないわけで。

阿部の最後の録音は長らく『ラストデイト』だと思ってたのですが、
翌日に行ったライブの16分ほどの演奏が残っていてCD化されてます。
晩年の彼の魅力を遺憾なく発揮したアルトソロ。

Amazonで辛辣な評価を書いている方もいるんですが、
そもそも完全即興、フリーってそういう宿命を負っている音楽です。
この方、山下以降の日本のフリーは形式だけ!と一刀両断にしてらっしゃった。

評価に与する気はないが否定する気もない。その聴き手にとっては事実だもの。
もちろん美化し神格化する気もない。例えば間章と阿部の出会いに関して、
阿部にとっては幸運と不幸半々の混淆物だったと思うんですよ。

阿部の葬儀に出たジャズ屋は山下洋輔と吉沢元治の二人のみだったそうな。
屹立していたのか、孤立していたのか。屹立したのは阿部の力だが、
孤立の原因の一つが間章ではなかったか、というと訳知りに袋叩きにされそう。

彼らの過激な左翼セクト的雰囲気に初期から馴染めず、すぐ離れた若者がいる。
坂本龍一という。彼の突き放した追悼文はけっこう好みです。
だが阿部をベイリーやミルフォードと共演させたのは間章の手柄でもある。

阿部の演奏の本質は無伴奏、共演者無しの完全即興にあります。
国内外のインプロヴァイザーと何度も共演し録音も残ってますけど、
阿部の音というのは共演者や理解者、言い換えれば夾雑物を一切必要としません。

初期を好む人が多く、代表作としてよく名前の挙がる盤というと、
『なしくずしの死』『彗星パルティータ』の二作でしょうけど、
私は彼が晩年、自分で交渉し実施した名もないハコでの録音が大好きです。

『騒』『アイラー』『街かど』といった喫茶店に毛の生えたようなお店。
店の電話が鳴り、卓上の食器が鳴る音も聞き取れる中で数セット演奏する。
アルト以外にも種々の楽器を使いますが、白眉はあのボロアルトでの演奏です。

貶されている『Last Recording』を聴きなおす。まず休符が凄い。
評論家がアイラーの音を『沈黙そのものと化す絶叫』と書いたことがあったが、
時には30秒に及ぶ阿部の休符は『絶叫そのものと等価の沈黙』に聴こえる。

「僕は 光より 速くありたい」というカッコつけた阿部の言葉が残ってます。
彼の音の瞬発力も、真に優れた音楽家だけが成し得る境地に思えます。
実は音色もとてつもなく素晴らしい。あまり触れられないことですが。

オーネットにドルフィー、トレーンにアイラー、レイシー、
ブロッツマンやエヴァンパーカー……フリー管楽器奏者も大勢いますけど、
音色の美しさに関しても、阿部は彼らの最良の演奏に匹敵する記録を残してます。

フレージングについて述べることは不可能、聴いてくれとしか言えない。
天衣無縫でもあり、調子のいい時は啓示にも思える卓抜した構成力も発揮する。
チャーリーパーカー以降のアルト吹きとして、高みを目指し続けたと思うのです。

阿部薫を音楽だと仮定した場合、その他の一切は音楽ではない。
こういう妄想を抱かせるほどの不世出のアルト奏者というのが私の総括です。
二十一世紀にまで阿部が残っていることは僥倖であり、必然でもあるのです。

(蛇足)

彼の音を必要とする人のところに、必ず彼の音は到達する筈です。
一方、知識や情報を先に仕入れ、『聴いておく義務』を感じた方にとっては、
唾棄すべきガラクタ/否定されるべき出鱈目と化す。そういう演奏家です。

貴方が阿部を必要とするタイプの方である場合、死直前の二作を勧めましょう。
『ラストデイト』(DIW 1978/8/28のライブ)
『The Laast Recording』(DIW 1978/8/29のライブ)

神でも天才でもない。突っ張って高踏派気取り、協調性のない人生を貫き、
ブロバリン飲み過ぎ29歳でおっ死んだ無名のアルト吹きの白鳥の歌。
だがこれは己であり他者でもあるのだと確信したとき、阿部の音は光芒と化す。




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