Nicotto Town



悲しみの果てに  (後編)

『和漢三才図絵』等に、若狭小浜の空印寺に八百比丘尼の木造あり。この尼、むかし当寺に住み、八百歳なりしも、美貌十五、六歳ばかりなし。(南方熊楠)

 返してください、私の声を、盗まないでください、私の記憶を、
 閉じ込めないでください、私のいのちを、その文字の中に(姜信子,八百比丘尼の話) 

千恵子は頬を幸介の胸にあてていて、千恵子の表情は分からかなったが、その頬には涙の流れた跡があった。幸介は、涙の流れた跡に指先を滑らせた。その頬は柔らかく、千恵子のことが愛おしくなり、子供をあやすように千恵子の背中をさすった。

幸介が母以外の女性と二人きりになるのは、自衛隊に入隊したとき、先輩に連れられて夜の街に行った時以来だった。榊の葉が風に揺れ、雲が空を流れていく。二人を包む時間がゆっくりと流れていき、千恵子の嗚咽もおさまったが、幸介は千恵子の背中をさすりつづけていた。

千恵子は、握り締めていた幸介の手のひらを自分の胸にあてた。幸介の手に柔らかな乳房の感触が伝わってくる。千恵子は、顔を上げ幸介の方を見た。そして目を閉じた。幸介は、ゆっくりと唇を、千恵子の薄紅色の唇に近づけていった。

「ただいま~帰ったで~」

玄関から母の元気な声が聞こえてきた。幸介と千恵子は縁側から立ち上がると、居間に向かった。

「寒かったわ~温泉に入ったけど、直ぐに身体が冷めてしもて、なんしに行ったか分からんわ。幸介、マック買うてきたんな。ホタテも美味しかったやろ。。。千恵ちゃん、つっこむところやで。」

母は、お土産を買ってきたと言って、紙袋をテーブルの上に置いた。そして、温かいもんを飲みたいわと言って、お湯を沸かし始めた。そして、紅茶を淹れながらマドレーヌの話をはじめた。

「ホタテが気になって、マドレーヌを買うてきたわ。王冠、瓶の蓋が大きくなったような円い形のマドレーヌがあるけど、あれは、間違いで。フランスのマドレーヌはホタテの形をしとるんが正解。函館のトラピスチヌ修道院のマドレーヌが有名やけど、貝殻のひだがマグダラのマリアが涙を流した跡に似ているからマダレナという名前なんや。これは、安もんのマドレーヌやけどな。」
https://www.hakobura.jp/db/db-present/2009/03/post-32.html

「千恵ちゃん、紅茶が冷めんうちに、食べようね。」

千恵子は、マドレーヌを二つに分け、紅茶に浸して口に運んだ。すると衝撃が走ったように、びくんと肩を震わすと、大粒の涙をこぼしはじめた。千恵子は、客間に走って行った。

「美味しなかったんやろか。幸介、どうや。」
「普通に美味しいけど。」

「安もんは、口に合わんかったんかの。」
「そんな安かったんか。」

「2割引きのこうてしもた。」
「なんで、お土産にそんなんこうてくるんや。」

千恵子は、夕飯の時間になっても部屋から出てこなかった。母は、千恵子に「ご飯食べんの?」と声をかけた。そうしたら、「お母さん、ごめんなさい。もう少し一人でいささせてください。」と返事が返ってきた。母は、幸介のところに、駆け寄ってきた。

「あんた、私、千恵ちゃんに『お母さん』って呼ばれたわ。嬉しいわ。」
「そこちゃうやろ。千恵ちゃんが、しゃべれたんが驚くところやろ。」

母と二人で、夕飯を食べ終わり、母は、おむすびを作ると、千恵ちゃんの部屋に持っていった。

翌日、漁が終わり家に帰ると、母が、千恵ちゃんおらんようになったわと言った。母は、これが残っといたと、お茶と一緒に手紙をテーブルに置いた。封を切り、便箋を開いた。

幸介と母は、便箋を挟んで見つめ合った。
「読めんのう...」
「読めんわ...」

便箋に筆で書かれた文字は、達筆すぎて何を書いているのか分からなかった。
「読めんでも、なんとなく分かるな。ありがとうて書いとるんやろ。」
「不義理って、ここに書いとるわ。謝っとるんやろな。」

封筒の中に、大きな真珠の珠が入っていた。
「気いや使わんでもええのにな。千恵ちゃんがおってくれて楽しかったんは、こっちやのにな。あんたと二人切りやと思うと、張り合いがないわ。」
「いつまでも、この家におるとは、思っとらんかったやろ。しゃあないわ。」

「千恵ちゃんって、人魚だったんかの。人魚の涙は、真珠になるっていうやろ。」
「人魚が海に投身自殺はせんやろ。」

「ほんだら、八百比丘尼かの。」
「母ちゃん、何それ。」

「人魚の肉を食べたら、不老長寿になって若さを保ったままになるいう話があるんや。昔、小浜でそんなことがあったらしいんや。」
「ほうな。」

「あんた、年上好きか。」
「ちょっと、くらいだったらな。」

「室町時代で800歳や。今やったら、千恵ちゃん1400歳くらいかの。」
「そんな風には、見えんかったけどの。」

「あんた、千恵ちゃんとやったんな。」
幸介は、飲んでいたお茶を噴出した。

「千恵ちゃんが、あんたの嫁さんになってくれたら良かったのにな。あのまま、口がきけんかった方が、あんたには良かったかもしれんの。ほんまに、紅茶とホタテのせいや。」
「千恵ちゃんが、幸せになったら、それでええやろ。」

母と二人きりの生活に戻ったが、千恵子がいなくなってから母は急に老け込んだ。まだ、70歳になっていなかったが、母は、あんたを一人残していくんが心残りやわと言いながら亡くなった。

母の三周忌(正しくは三回忌)に、墓に備えようと中庭の榊の枝を折り共同墓地に行くと、千恵子が墓前で頭を垂れていた。二人で、墓を洗い家に帰った。

母は、千恵子の鞄に手紙を入れていた。手紙には、いつでも帰ってきまいと書かれていて、好きにつこうたらええんでとお金も一緒に入っていた。千恵子は、お金を返そうと、幸介の家を訪ね、竹内さんに母が亡くなったことを聞いたとのことだった。

それから、幸介は、千恵子と一緒に暮らしはじめた。幸介は、千恵子に何も聞かないが、すこしふっくらした体型になった千恵子を見て、八百比丘尼ではなかったみたいや、母ちゃんありがとうと、中庭の榊を見ながら雲の上の母に報告した。
                (完)

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2022/01/11 22:41
るるもさん
読了、ありがとうございます。あと、350日は現れない貴重なハッピーエンドです。

つん
あっ、コメントを見逃していた。波乱万丈な人生を目指しましょう。
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2022/01/11 22:13
やっと読めました^^
普通に終わったね。
ハッピーエンドで良かったです(⁎˃ᴗ˂⁎)
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2021/12/26 00:03
アリスさん
きっと、日本海の魚が食べたくなって、帰ってきたのでしょう。お魚は、脂ののった日本海の魚が美味しいですね。この時期は、鰤、のどくろが美味しそうです。
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2021/12/25 23:11
幸介ママがここにいないのが残念
でも 静かで幸せな生活が続きますように^^
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2021/12/25 20:25
千恵子さんは、戻ってきたんだね。
めでたしめでたしだね。
お母さんが縁を持ってきて、結んでくれたのかな?
いいお母さんだね。
ほっこりしました。
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2021/12/22 22:46
たまちゃん
そうです。謎のままにしておきましょう。これ以上、オチに困った作者を悩ませてはいけません。お母さんは、偉大なのでしょう。お父さんは、ほったらかしにしても、子供のためなら、いくつになっても、頑張るのがお母さんです。母親に心配させるのが親孝行です。私は、立派な孝行息子です。

mさん
コンビニで買うのは、昆布と鮭が多くて、時たま、辛子明太子や赤飯です。さすが、北前船文化圏の昆布推しですね。おむすびを包むのは、海苔の方がいいのではないでしょうか。私は、味付け海苔派です。しかし、東京に来てからは焼海苔になってしまいました。
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2021/12/22 22:01
めでたしメデタシ~♪

おにぎりは何が好き?外側が昆布、中身が梅干し←私のお気に入り。形は三角。
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2021/12/22 21:34
さ、最後は急展開でしたねっ!!!
でもハッピーエンドでよかったです~♪
千恵ちゃんの謎は残ったままですが、
知らなくていいこともたくさんありますもんね。
それにしても、いいお母さんだわ~(幸介さんの立場は・・・)
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2021/12/22 19:01
涼華さん
無知をさらけ出して恥ずかしいです。家に帰ったら、速攻で直してバレないようにします。急展開は眠たくなったからかもしれませんが、後編で終わらさなければ、いつまで、ダラダラ書いているんだと怒られてしまいそうだという脅迫感からかもしれません。次回は、3000字以内を目指します。
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2021/12/22 14:01
ハッピーエンドにしてほしいと思っていましたが
読み進むうちに、それはないのかな…と
思わせておいての急展開! さすがです (*≧m≦*)

余計なお世話ですが、三周忌じゃなくて三回忌ですねw
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2021/12/22 09:00
風花さん
千恵ちゃんは、生きることに疲れていたのだと思います。生まれ育った北陸の海を見て、衝動的に飛び込んでしまったのでしょう。人魚伝説にはさまざまなものがありますが、人魚の肉を食べると、永遠の命とともに、死ぬことの出来ない苦しみが待っている話が多いです。
マドレーヌは、若い女の子なら昔の記憶が蘇ると思い出し笑いになりますが、1400歳の千恵ちゃんは、辛い思い出が甦ったのだと思います。
お母さんは、息子のお嫁さんが欲しかったのでしょう。もう少し、幸介が歳をとるとうちの母のように諦めるのですが、早くしないとといつも思っていたのでしょう。

千恵ちゃんが、読み書きを覚えたのは、年齢からして奈良時代のことだと思います。平仮名が使われるようになったのは、平安時代とすれば、千恵ちゃんの手紙は、漢文であったと思われます。私は、漢文が苦手でした。

夜の12時を過ぎ、早く寝ようとはしょったのが悔やまれるところです。しかし、読者は、この話し長いわと飽きてきたころでしたので、やむを得ないでしょう。
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2021/12/22 06:46
お母さんはタイミングが悪い時に帰ってきましたね~
でも、何が千恵子ちゃんの源にあったんでしょう
紅茶とマドレーヌを食べて、泣き出す事って何だろう???

お母さんと呼ばれた時の、お母さんの嬉しい気持ちは
声が出た事よりもおばちゃんじゃなく、お母さんだったからでしょうか~

文字が二人とも読めないという事は、もしかしたら外国人だったのかな~と思いきや
達筆すぎて読めなかったんですね~

いきなりお母さんも亡くなったので、ビックリしましたよ!
外国語じゃなく達筆すぎて読めなかったと同じくらいビックリでした^^;

ハッピーエンドで良かったです
ありがとうございました^^♪

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2021/12/21 23:22
リンゴさん
マドレーヌを紅茶を浸して食べた瞬間に記憶が蘇るというのは、プルーストの「失われた時を求めて」のプロットです。千恵ちゃんも、マドレーヌを浸した瞬間に、1400年、死ぬここともできずに苦しんでいた記憶が一気にフラッシュバックしたのでしょう。そして、愛する人との別れの繰り返し、この二人とも別れなければいけにという仏教でいうところの愛別離苦から涙が込み上げてきたのでしょう。真珠は、作者にとっても謎です。

wineさん
不老不死ですから、健康保険証は必要ないのでしょう。飛鳥時代の645年、「大化の改新」で戸籍が制度化され、670年に「庚午年籍」と呼ばれる制度が作られています。元号は、大化→白雉→朱鳥→大宝と続きます。日本初の律令制度が構築された「大宝律令」の大宝です。八百比丘尼は大宝時代の生まれと言われているので、住民票は「庚午年籍」に登録されていると思います。
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2021/12/21 22:38
ハッピーエンドで良かったわ〜。保険証とか住民票とか気になるけど。
お母さんが亡くなったのは残念です。
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2021/12/21 22:23
千恵子がどうして泣いていたのか
その理由が聞きたかったなぁ
あと真珠の意味('_')
ほんのりハッピーエンドになってお母さんもほっとしているでしょうね^^
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2021/12/21 21:55
あずさちゃん
それは、きっと経験不足で書けないのでしょう。小麦を計ってから、踏むまでだったら、詳細かつ長大に描くことができます。次回作は、うどんに恋した男のタイトルで執筆しましょう。おっぱいでなく、うどん粉を捏ねます。
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2021/12/21 21:44
さっき読んでる途中に呼ばれて中断したから、もっかい読みました
う~~ん なんか出会ってから付き合う前の段階がいつもスコーンと抜けてる気がするのね
急に乳房の感触とか言われてもねー困っちゃうわ(*ノωノ)
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2021/12/21 18:54
スズランさん
世の中、草食系勢力が増加していますので、母がハッパをかけるしかありません。父親は、俺が若かったころは〜と参考にならない意見しかないはずです。スズランさんの頑張りが大切です。
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2021/12/21 16:28
お母様が取り持つ縁で素敵でした。
こんな素敵な女性に将来なりたいです(〃▽〃)ゞ
息子が女性に臆病だと、母親が頑張るしかないのね、
という教訓にもなりました笑。
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2021/12/21 12:27
ろくさん
振袖を着たのも、平安時代から生きているので、和服は楽勝ということだったんだけど、千恵ちゃんのことを書き始めたら第二部に突入して寅年になってしまうのです。お許しくださいませ。
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2021/12/21 11:46
せんせえ、伏線の回収もう少し欲しかったですわ。終わりを急ぎ過ぎな気がしましたよ。でも風景や表情など全てが想像し易くて好きな話です。




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