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ジュンチャン


ジュンチャンと世界を巡る 第80回はパラオ


 今回はミクロネシアの国々の中からパラオを取り上げます。

 パラオは、太平洋に位置し、ミクロネシア地域の島々からなる共和制国家で、首都はマルキョク、2006107日にコロールから遷都しました。

 パラオ南西部に位置するアンガウル州では日本語を公用語として採用していることでも知られるとおり、ミクロネシアパラオなどミクロネシアの地域は日本の支配下だったことがあり、パラオは人口が2万人ほどで、世界で3番目に人口が少ない国です。

 国名の由来は、マレー語で「島」を意味する「Pulau」です。

 国旗のデザインは海を表す青地に月を表す黄色い丸が配置されていて、日本の国旗である日の丸が元となっている説もあるが、パラオの国旗の発案者のJohn Blau Skebongは「私はもちろん日の丸を知っているが、特別にそれを意識してデザインしたわけではない」と否定しています。

 この国の歴史ですが、国内に多く残る遺跡などを研究した結果、約4000年前から人が住んでいたと推定されています。

 大航海時代の延長で、16世紀頃のからミクロネシア諸島にヨーロッパ人が訪れるようになりますが、日本とほぼ同様に最初にスペイン人が、次いでポルトガル人、そしてイギリス人がやってきたとされています。

 1885年にスペイン領東インドの一部になり、これらのヨーロッパ人により天然痘が流入したためと彼らの現地人に対する搾取が原因で、パラオの人口は90%程度減少したとされています。

 1899年に国力が衰退の一途を辿っていたスペインは、ドイツ・スペイン条約によって、グアムを除くスペイン領東インドを450万ドルでドイツ帝国に売却しましたがパラオもこれに含まれ、これ以降ドイツ領ニューギニアの一部となりました。

 パラオがもたらす富はドイツ人に独占され、貨幣経済の一般市民への浸透もままならず、それどころか他のドイツの植民地と同様に道路や水道などのインフラ整備や、現地人への初等教育すらほとんど行われなかったため、スペインや日本時代の遺構や遺跡は数多く残されているものの、ドイツ時代の遺構や遺跡などはほとんど残されていません。

 1914年に第一次世界大戦が開始されると、当時締結されていた日英同盟により、イギリスやフランスなどと同じ連合国の一国として、ドイツに対して宣戦を布告した日本が海軍を派遣し、数少ないドイツ守備隊を瞬く間に降伏させてこれを占領しました。


 そして1919年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になったのです。

 コロールには南洋庁および南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島の中核的な島となり多くの日本人が移住した結果、パラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となったのです。

 軍人を除く19436月末時点の居住者33,960人の内訳は、内地人(内地出身日本人)25,026人、朝鮮人(朝鮮半島出身日本人)2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人です。

 日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった電気や水道、学校や病院、道路や公的施設など社会的基盤の整備、貨幣経済への移行が重点的に行われ、これにより1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させ、多くの日本人が住み着き、彼らはパラオ人に対して極力差別がない扱いに努めたのです。

 また、日本統治の開始に伴い日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになりますが、現地用の教科書編纂のために南洋庁の書記として赴任していた中島敦(帰国後に専業作家となる)は個人的感想として、原始的に暮らしている現地住民に近代的な高等教育を施すことへの疑問の手紙を家族に送っていて、基礎的な日本語がわからないうちに日本歴史、地理、理科などを教えるのは島民児童や教員への負担が大きく困難だとして、民政時代には3科目を省くなどパラオの実態を考えて変更を重ねた経緯があります。

 パラオは19458月の連合国に対するポツダム宣言受諾に伴う日本の降伏により日本の統治が終了したものの、現在でも非常に親日的でかつ多くの日本人観光客が訪れている上、アメリカからの援助額を超え、日本から最も多くの経済援助を受けている国です。


 ここからパラオ観光地の紹介になります。

 まず、ペリリュー島です。

 ペリリュー島は2015年の春に天皇陛下がご訪問されたことで有名になりましたが、この島は太平洋戦争時に日米間での激戦地であったため、島のいたるところに当時の風景が残っています。

 旧日本軍がいた洞窟(千人洞窟)や海軍司令部跡などの戦跡がたくさんあり、洞窟には火炎瓶が転がっていたり、司令部も大きく破壊されていたりと、当時の戦争の激しさが伝わってきます。

 また、ペリリュー島の道路には日本軍・アメリカ軍が使っていた戦車も当時のままの姿で置いてあり(法律上移動できない)ます。

 次にジャーマンチャネルです。

 ジャーマンチャネルは、20世紀初頭にパラオにいたドイツ軍によって、船舶が通れるようにするために浅いサンゴ礁を掘って作られた人工水路です。

 南方面のロックアイランドのサンゴ礁に囲まれたラグーンの境界にあり、コロール市からはスピードボートで50分くらいで行くことができます。

 ジャーマンチャネルは浅いサンゴ礁にあるので、周りの海がエメラルドグリーンになって見え、パラオらしさを楽しめるスポットになっています。

 また、ジャーマンチャネルは運がよければマンタ(オニイトマキエイ)を見ることができる場所で、それも5メートル級の巨大なマンタを見ることができます(運が悪いと底の砂地でずっと待つことになりますが)。

 最後に、ミルキーウェイです。

 パラオのロックアイランドはサンゴ礁の石灰岩でできていて、これが海の浸食で削られて、入り江に堆積します。

 その石灰岩の砂は発酵して独特の白色の泥となっていて、海の表面から見ると他の場所とは違って白っぽく見えます。

 ミルキーウェイに着くと、ツアーガイドが水中に潜ってこの泥をかき集め、ま海水と混ぜて適度なドロドロ感を出した後に、これを全身に塗ります。(発酵しているのでちょっと臭い。)

 塗った泥が乾いた後は、海に飛び込んで洗い流します。

 すると、塗る前と比べて肌がもちもちしっとりしていることに気づきます(お風呂より美肌に効果あるとか)。

  

 次回からも、ミクロネシアの国々を個別に紹介しますので、引き続き気楽に遊びに来てください。( ^)o(^ )

 

 




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