『ドライブ・マイ・カー』を見てきました。その1
- カテゴリ:映画
- 2022/02/04 13:49:16
ネタバレがあります。
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2月2日水曜日のシネマズディに、
村上春樹原作、濱口竜介監督の
『ドライブ・マイ・カー』を見てきました。
昨年後半に公開された時、
機会があれば見ようと思っていたのですが、
しかし締切に追われていて、
心にその余裕がありませんでした。
ですが、アメリカのゴールデングローブ賞、
全米批評家協会賞を受賞したことで、
再上映が行われることになったので、
これ幸いと映画館に出かけることになったのです。
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そして、これは映画館で見るべき映画です。
大きな画面で人間たちの表情を見ること、
緊迫した表情とその移り変わりの機微を丁寧に追うこと、
これがこの映画の魅力ですし、
この表現に成功した点で、
この映画は近年まれに見る名作と言ってよいかと思います。
テオ・アンゲロプロス監督のような長回し映像によって、
表情をしっかりと追い続けることで、
その人間の緊迫した心と、
その心が揺らぎ、移ろっていく様子が撮し込まれています。
この映画は、物語を急いで進めようとはしません。
カットのつなぎで物語の展開を説明しようとはしません。
そうではなくて、この映画は、
カメラが見据えた人物の心を見つめ、
その心を読み取ることを観客に求めています。
そうすることで、観客自身がその人物になることを、
したがって、その人物を生きることを求めています。
だから、観客は、深くこの映画の中へと入っていく。
そして、登場人物たちが抱える得体の知れない闇や喪失や悲しみを、
共有していくことになるのです。
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このような手法は、
演劇の制作過程そのものと言えますし、
また、当事者の心理を追体験してみる、
ソシオ・ドラマと呼ばれる心理療法の手法とも言えるでしょう。
この映画では、そのような
人物を見つめ、その人の心を見つめ、その人物を生きるという手法が、
何重にも入れ子構造になって組み合わされています。
まず、この映画は、
チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の舞台制作過程として進行していきます。
その舞台の演出を務めるのが、この映画の主人公です。
ですから、演出家が役者を見つめる、
演出家が役を演じる役者の心を見つめ、
その心の変化と表現の変化を見つめるという構図があります。
この演出家の演出手法は、
何かを狙って意図的に「演技を付ける」ようなものではありません。
見る人を楽しませ、その感情を高ぶらせ、劇的効果を狙うような演出方法を
彼は採らないのです。
そうではなく、チェーホフのテキストを、感情を抑制してひたすら読み込むこと。
そうすることで、自らが演じる人物を見つめ、その人物が発する言葉を自分のものにしていくこと。
そして、その作業を経ることで自然に生み出されてくる役者自身の感情や表現、
役者同士のアンサンブルを丁寧に掬い上げていくこと。
ですから、この映画では、演出家が役者を見つめるだけでなく、
役者もまた、自分の役を見つめていくことになるわけです。
* * * *
同時に、この舞台制作中、演出家は、
亡くなった妻が台詞を吹き込んでおいた
『ワーニャ伯父さん』のカセットテープを、
稽古場との移動の際、車の中で再生し続けます。
亡き妻が語る『ワーニャ伯父さん』の台詞は、
ワーニャ伯父さんの台詞だけが抜いて吹き込まれています。
そして演出家は、行き帰りの車の中でこのテープをかけ、
欠落しているワーニャ伯父さんの台詞を、
自分自身が語っていくのです。
ですから、演出家が暗唱するワーニャ伯父さんの台詞と、
亡き妻の声で流れ出るそのほかの登場人物の台詞が、
車の中で対話し合うことになります。
その結果、演出家自身も、
ワーニャ伯父さんという役を見つめていくことになりますし、
ワーニャ伯父さんという人物になることを、
その心と感情を追体験していくことになります。
しかも、その作業を、亡き妻とのアンサンブルの中で行うことになるのです。
ですから、ワーニャ伯父さんの嘆きは、演出家の嘆きとなります。
彼はワーニャ伯父さんを通じて、妻を失った自分の嘆きを表出させていきます。
心の内に封印していたものを、ワーニャ伯父さんを通じて、
露わにしていくことになるのです。
“その作業を経ることで自然に生み出されてくる役者自身の感情や表現、
役者同士のアンサンブルを丁寧に掬い上げていくこと。“
したがって、この舞台制作は、
封印されたままだった当事者の心理を、すなわち演出家のトラウマを、
演出家自身が追体験してみることで振り返ってみるという、
演出家自身の心理療法になっていくのです。
演出家自身にとって、それは意図せざる形であったでしょうが。
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そして、そのような舞台制作の過程を、
今度はレンズを通して見つめている濱口竜介監督がいるわけです。
それぞれの役に向き合う役者たちの姿とその役者たちのアンサンブルを、
そして、ワーニャ伯父さんを介して自らを表出させていく演出家の姿を、
濱口竜介監督が見つめているわけです。
ですから、濱口監督もまた、
カメラが捉えた人物の心を見つめ、その心を読み取り、
その人物になることを、したがってその人物を生きることを、
試みていると言えるでしょう。
そして、そのような濱口監督の作品を、
今度は、暗闇の中から見つめている私たちがいます。
長回しの映像によって、登場人物の表情を見つめ、
その心を読み取り、その人物自身になることを、
したがって、その人物を生きることを試みる私たちがいるのです。
このような試みに向かわせる巧みな仕掛けが、
この映画には、入れ子構造となって用意されています。
試みに向かわせる巧みな仕掛けが、この作品にはあります。
ですから、カンヌ国際映画祭の審査員たちは、
この作品に脚本賞を与えたのでしょう。
慧眼です。
その2に続く。