Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


きらきら、黒耀石がふりそそぐ その1

仮想タウンでキラキラを集めました。

2022/08/15
キラキラ
集めた場所 個数
ショップ広場 7
神社広場 3


四択 石鹸
(でも、わたしはラベンダーかな。)

(半月ほどまえに、ほかで書いた文章を三回にわけて載せます。)

 7月下旬、長野に一泊で旅行に出かけてきた。
 中部高地というのか。このあたりの高原には石器として使われた黒耀石の原産地遺跡があり、水や山の幸に恵まれたことから縄文のムラの遺跡も数多くある。
 以前、そのなかの茅野市尖石遺跡には訪れたことがある(国宝の縄文のビーナスが出土した場所)。今回はそれ以外の場所、井戸尻考古館と、黒耀石の原産地あたりをメインの小さな旅。
 黒耀石はマグマが急激に冷えて固まった天然のガラス。縄文時代に心惹かれるようになって、この石の存在が気になり始めた。いや、もともと二酸化珪素を多く含んだガラス的なもの、透けてみえる石、ツルツルした光沢が好きだったというのもあるだろう。
 黒耀石の原産地は諏訪湖の近くや、高原のほうで、遺跡として残っていて、今も山道などに落ちている(勿論、ほとんどのところで採取は出来ない)と聞いたことがあり、いつか訪れたいと思っていたのだった。
 四月に山梨の釈迦堂遺跡博物館に出かけたとき、日本遺産「星降る中部高地の縄文世界」というのを知った。2018年5月に文化庁より長野県(茅野市、富士見町、原村、諏訪市、岡谷市、下諏訪町、長和町、川上村)と山梨県(甲府市、北杜市、韮崎市、南アルプス市、笛吹市、甲州市)の遺跡群が認定されたという。正式名称は「星降る中部高地の縄文世界―数千年を遡る黒耀石鉱山と縄文人に出会う旅―」。
 釈迦堂遺跡も、その中に含まれていた。ぎりぎり日帰りで行ける。細長い地域のなかで、一番近いところだった。あとは大雑把にいうと、長野の諏訪や蓼科、塩尻のほうへ、細長く百キロ近く伸びていて、日帰りは難しかったので、一泊。もっと泊まりたいが、仕方ない。
 山梨の釈迦堂で知った日本遺産、今も黒耀石が落ちている場所。これらが連なって旅行になってゆく。この過程たちもえにしだと思った。つらなって、ひろがってゆく。
 ところで長野は地理的なことをあまり知らない。ネットで宿を探したところが、偶然、黒耀石の遺跡に近いことも不思議だった。
 細長いところの最初が井戸尻。そして以前行った茅野を通って、宿も通り過ぎるとほぼ端になる、黒耀石などの遺跡のある長和町。
 旅行初日は日曜日。次の月曜は博物館美術館関係は休みのところが多い。井戸尻などもそうだった。それもあって、初日に集中して博物館的なところへ行くことにした。開館の9時に着くように、車で家を出る。6時半ぐらいだっただろうか。
 前日はほぼ嵐。不安定な天気だったが、晴れている。中央高速に乗って比較的すぐ、20分ぐらいだろうか。景色は山のそれになる。八王子を過ぎ、神奈川の上野原、相模湖など。意外と山が近いのだなと、平地に住んでいることがいつも不思議になる。日曜の朝なので、道は空いている。渋滞情報などで、よく見聞きする談合坂サービスエリアを過ぎ、釈迦堂パーキングエリアも過ぎる。寄りたいが時間がない。こころのなかで挨拶をする。教えてくれてありがとう。このあたり、山梨の一宮、笛吹市、いや甲府盆地は、四月に来たときは、桃の花の色で、彩られていた。今は緑の葉っぱたち。小淵沢で高速を降りて、井戸尻へ。辺りは緑が多い。日本中あちこちにあるチェーン店のようなものがない。コンビニも通った道の範囲には見えなかった。もっともそれが心地よいと感じるのは、こちらの勝手な感覚なのだろうが。一面拡がる広い畑たち。なかでもトウモロコシの畑を見るのはひさしぶりだ。家の辺りでは見かけないから。
 そんななか、井戸尻遺跡、井戸尻考古館はあった。観光地として派手にうたっているわけではない。けれどもとても整備されているのが感じられて。
 開けた景のなかに、夏の日差しのなかに、それはあった。
 実は6月に、「発掘された日本列島2022」(埼玉県さいたま市・埼玉県歴史と民俗の博物館)に出かけていた。その「我がまちが誇る遺跡」という特集のなかで、井戸尻遺跡群のことを紹介していた。「─おらあとう(おれたち)の考古学と遺跡の保護─」。〈住民自らが発掘を行い、自らの手で守り続けてきた八ヶ岳西南麓の縄文遺跡〉(チラシより)なのだそうだ。昭和33年(1958年)の遺跡調査がきっかけに、自分たちの村の遺跡を「おらあとうの手で」と、地元民が中心となって進められてきたらしい。昭和41年(1966年)には、国の史跡に指定され、考古館を含むあたりは、史跡公園として整備されている。井戸尻遺跡群とは、考古館のある井戸尻遺跡のほかに、近くに狢沢、曽利、藤内、向原などの遺跡がある、その総称。
 ついたのは丁度9時過ぎぐらい。古くからある、てらうことのない資料館といったたたずまいがしっくりする。
 八ヶ岳西南麓のこのあたりは、縄文中期中葉の遺跡。井戸尻あたりで海抜900メートル、遺跡全体でも800メートルから1000メートルの高いところにある。尾根からの傾斜地で、湧水が豊富なのが、あちこちの縄文遺跡と共通して、集落を形づくった要因になっているのだろう。
 井戸尻遺跡群の縄文土器は、動物らしいものと人の頭を組み合わせた文様の見られるもの、水煙渦巻文深鉢(曽利遺跡出土)などの、新潟の火焔式土器のダイナミックな火のイメージを水の側から髣髴とさせる、水の飛沫のような表現が静かに力強い、おおまかにいって、こうした特徴を持っている。
 考古館の解説などは、手書きのものもある。古びた紙の質感とあいまって、ああ、「おらあとう」の遺跡なのだなあと、そのことも感慨深い。
 解説によると、「みづち」(蛇や龍的な混成の水棲動物)、目のような、「半人半蛙」(人と蛙の混成)、月と双眼、そんなふうにも見える土器たちが並ぶが、正直、解説はあまり読まなかった。先入観なしに、土器を見たかったからだ。
 土器たちのもつ、あえて具体にならなかった抽象性、その沼に浸ってみたかった。みづち的なもの、人的なもの、なるほどそれらの要素がまざりあっているのかもしれない。まざりあうこと、そしてわかりそうでわからない世界こそが、切り取られずにつながっているのでは……。土器たち、土偶も、表と裏ではおもむきが違う。真逆のように見えることすらある。表が人で裏が蛇。それらが静かにまざりあい、そこにある。
 考古館を出ると史跡公園が拡がっている。井戸尻遺跡には竪穴式住居があり、その周りを囲んで、水性、湿性の植物たちが植栽されている。これも湧水が豊富なことを物語っているだろう。復元住居は一棟だけだった。野中にぽつんと。中に入る。定期的に火を起こしているのだろう。燻された香りがしていた。茅葺きの屋根も手入れがされているようだ。けれども、つつましい、さりげない感じで、それが青い空のなかで、よく似合っていた。湧水がごうごうと流れている。遺跡から少し下るかんじで、花たちにあいにゆく。実はここの蓮がみたかった。丁度満開だと事前に知っていたから。大賀蓮が古代の蓮だ。2000年以上前の種から発芽した蓮。トンボが多い。ほかに睡蓮、コウホネ。池に空が映っている。水が澄んでいる。小さな流れに手を浸すと、とても冷たい。冷たさが暑さのなかで心地よい。

(この項続きます。いつも読んで下さってありがとうございます)






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