自作小説倶楽部9月投稿
- カテゴリ:自作小説
- 2022/09/30 22:17:59
『不幸な死神』
非常階段から目立たず立ち去るべきなのに非常口を開けると暴力そのものの雨と風が襲い掛かってきた。非常階段を徒歩で降りることはティラノサウルスの口に飛び込むのと同じだ。
やむなくエレベーターを使う。深夜だから誰にも会わない。という希望的予測は第一歩から裏切られた。
「待って、乗ります」
声と同時に私は背中を押した人間とともにエレベーターに押し込まれた。振り返ると黒髪の若い女だった。何故が両手で小さなバッグとハイヒールを抱えて閉まる扉を見つめていた。私に押し付けられた身体から女の怯えが伝わる。その原因はすぐにわかった。
ほとんど閉まりかかった扉は男の手に阻まれる。下方でカチカチ音がしたので見ると女が側面にあるボタンの『閉』を連打していた。努力空しく男はエレベーターをこじ開けてしまった。
「待ってくれ。誤解だ」
「信じない。訴えてやる。あなたが私にしたこと全部みんなに話すわ」
男の猫なで声を遮って女が叫んだ。エレベーターに入って来た男は部外者の私がいることに気付いて小さく舌打ちした。私は合羽のフードを深くかぶりうつむいた。
男は一見優男に見えるが手は大きくシャツの下の身体は鍛えている。油断なく私にも目を配り、女に近づく。
一階に着いたらダッシュで逃げよう。と階数表示を見つめていたが、照明が点滅すると消え、真っ暗になると同時にエレベーターが下降を停止してしまった。
女が、ひい、と悲鳴を上げる。
慌てて通信機器を確かめる。携帯キャリアはすべて沈黙。台風が原因の大規模な通信障害らしい。上司への直通電話を取り出そうとしてやめる。他人がいる場所では使用禁止だ。
「おい、何だ」
男も携帯が通じないことに気が付いたらしい。画面を明るくしたまま、天井付近の監視カメラに手を振り、それから非常ボタンを何度も押すが反応は無い。システムは私がダウンさせたままだ。私はひたすら気配を消していた。
「なあ、」
私の存在を忘れたかのように男が女にささやく。夢だの愛だの。陳腐な台詞なのに女は黙って聞いている。納得したというより、疲れ諦めてしまったのだろう。こういう男は執念深い。夜目のきく私は男の口元に嫌な笑みが浮かぶのに気が付いた。平気で嘘を付き、他人、主に女たちの人生を踏みにじってきた顔だ。小さな仕事でこういう連中を相手にするからよくわかる。
私は深く、肺一杯に空気を吸い込み、息を止める。
そしてスプレーの催眠ガスを噴射した。
「いやあ、災難だったね」
迎えに来た上司はいつもの本心の読めない笑顔で他人ごとのような台詞を吐いた。その顔に手刀を二十数回たたき込む妄想をしながら、私は荷物を後部座席に放り込んだ。合羽を頭から被せ、紐でぐるぐる巻きにした男がかすかにうめく。しぶとい。しかしエレベーター脱出に時間を掛けてしまったので撤退が先だ。
私が助手席に収まると同時に車が発進する。
「そのゴミの処分代は君の報酬から引いておくよ」
上司の言葉に私は無言で頷いた。殺し屋が人を殺して金を払うなんて馬鹿げているが、男の素性がわからないから下手な工作より、失踪してもらうことにした。
「君はよく自分を運が悪いって言っているけど、」
上司が笑いながら言った。
「君が殺さなかった女の方は幸運だよ。きっと」
女の方はマンションのエントランスの隅に置いて来た。ガスの効果が切れたら悪い夢からも覚めるだろう。
台風が過ぎ去り、澄んだ空が白み始めていた。
気の毒な女性を助けて上司からペナルティ
それでも優しさは魅力