キラキラ、ありがとう、彼岸花たち その2
- カテゴリ:タウン
- 2022/10/13 10:58:45
仮想タウンでキラキラを集めました。
2022/10/13
集めた場所 | 個数 |
---|---|
教会広場 | 10 |
神社広場 | 3 |
四択 関ジャニ∞
埼玉県日高市巾着田の曼珠沙華まつり、1からの続きです。
今年はあまり、長くいることができない事情があったので、開花状況ををざっと確認してから、物販飲食エリアへ向かう。何年か前に来たときよりもお店が減って、規模が縮小しているようだったが、それでも賑わいを取り戻しつつある雰囲気がここにもあった。木工細工のお店、お茶屋さん、観光協会、あとなんだったか。彼岸花のTシャツやハンカチなども売られていた。飲食は、焼きそばやおにぎり、うどんなど。近くの牧場出店のアイスクリームなどもあった。球根がない。出店数も減っているから、売られていないのだろうか。とりあえず、インドカレーのお店の、バターチキンカレーとナンを頂く。基本このての食べ物、特にナンが好きなのだが、ここで食べるとは思わなかった。ナンは焼きたてでもすこしぱさついていたし、カレーもものすごく少量で、味はいまいちだったが、面白い体験だった。ここに来るときは、たいていサンドイッチかおにぎりを作ってきて、河原でレジャーシートを敷いて食べていたから。
食べ終わって、観光協会だったかで(これを書いている今、祭りが終了しているので特設サイトにアクセスができず、正確に調べられなかった)、話を聞く。球根は、今年も売っていたのだが、もう完売してしまったのだとか。「たくさん用意していたんですけどね~」とすまなそうに、けれどもどこかうれしそうだった。その気持ちがなんとなくわかった。わたしも売っていたこと、売り切れるまでになったことが、どこかうれしかったから。だが球根を関西につれてゆくことが出来なくなった。残念だとは思ったが、それほどがっかりもしなかったことが我ながら意外だった。こんな彼岸花たちを見ることができただけでも良かったのか。
あるいは、その前の週に、関西に行ってきたとき、田んぼの畦道などで咲いている彼岸花を見ていた。群生ではない、点々とだ。特別な感じではなく、秋の中に、溶け込んで咲いている。そのことが頭にあったのかもしれない。
そういえば、家の近所では、まず田んぼがないから(田んぼを作っている公園はあるが)、ああした風景は久しぶりだった。また別の彼岸花との出会いが向こうでもあるのだろう。
もう一度、遅咲きエリアへ花たちに会いにゆく。確かにいつもより人も少ないようだ。例年なら見かける観光バスツアーなども終わっているようだ。もっともこうした場所では人はあまり気にならない。ほとんどが静かに花を愛でにきているから。各自、小さな声で感想をいい、写真を撮っている。色あせはじめたが、ぎりぎりの満開。木々の下で、赤い絨毯のように拡がっている。川沿いの群生地の小径をはさんで隣、巾着の袋のもうすこし真ん中よりに、水車小屋、ふれあい広場やビオトープがある。小径が土手のようで、そこに群生とはいえない彼岸花たち。ああ、田んぼの畦道のそれのようだと、その一週間前に関西でみたもの、そして自分が子どもの頃に河原や田んぼで見たそれを思い出す。
なぜ彼岸花にひかれるのだろう。去年や一昨年、ここでお祭りが開催されていなかった時は、比較的家から近い、野川公園、府中市郷土の森博物館などの群生地に行った。そのとき、ああ、巾着田みたいだなあと思った記憶がある。彼岸花もそうだが、この巾着田という場所にも思い入れがあったのだ。
なぜ彼岸花にひかれるのだろう。そこには沢山の理由がまざっている。中学生の時、亡父と河原で見たこと、毒があるので、土葬が主流だった墓場にモグラなどに荒らされないように植えたことや、血や火を思わせる花の色から、不吉なイメージがあること。別名の名も多いが、地獄花、幽霊花など、縁起のよい名前がほとんどない。毒がある反面、よく水にさらせば球根は食べることができるので飢饉の時の救済食となったとか(真似をしてはいけない)。田んぼ近くに生えていることも、墓地に植えられたこととほぼ同じ理由だ。稲を荒らされないため。
この不吉とそうでないところの狭間に咲くような花だから、気にかかるということもある。理由たちがかさなって、赤い花は手招きするように咲いている。
高麗川にかかる、あいあい橋あたりで彼岸花エリアは終わる。橋の真ん中までゆき、高麗川と群生の彼岸花を上から見た。高麗川の水が特にこの日はきれいなように感じられた。以前から澄んだ流れのイメージがあったが、緑がかった水の透明さが心にしみた。ここでも、こうした水を見ることができて、よかったと思う。
川で投網漁をしている人がいた。実は彼の姿は、もう数十年前から、ここに来ると見かけている。最初は漁をしているだけだったが、ここ十年ぐらい、河原に水槽を置いて、この川にいる魚を紹介してくれてもいる。オイカワ、ウグイ、カマツカ、カワムツ、アユ、ヨシノボリ、カジカ。なんど、いつから見るようになったのだろう。来るたびにいるわけではない。数年、姿が見えない時もあり、もう辞めてしまったのだろうかとさびしく思ったこともあった。この日も会えると期待していなかったので、見つけたときは驚きを感じたぐらいだ。会えてよかった。ことばも交わしたことがないのに、勝手に親しみをおぼえているのだった。
橋を降りて、河原へゆく。手をのばして、水に触れる。思ったよりも冷たくない。流れを指が感じる。これが川の水なのだ。
投網の人はすこし下流のほうへ行ってしまった。姿が小さくなっている。今年もありがとう。名残惜しいが、そろそろ帰らないといけない。
土手のような小径を通る。右側は田んぼの畦に咲くような彼岸花、左は少し降った斜面の下に、群生の彼岸花たち。球根が買えなかったことが残念ではない、またそのことを思い返した。それよりも、なにか得たものたちが多かった、もうこれで充分頂いた、そんな気がしたのだろう。やはり何年か前のある時、この道ぞいにツリガネニンジンが咲いているのを見たことがあったなと思い出す。まだ秋も早い時分だったから、この日は、終わっていて、なかったが。けれども、数日後に、家の近所の崖の斜面で、やはり花の終わり頃であったけれど、ツリガネニンジンの姿を見ることができた。薄紫の、ちいさな鐘のような花たち。うれしかった。彼らはあちこちで、きっと来年も、どこかで。
(この項 おわり)
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