Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー10

まだ夜の明けきれていない阪神高速にエンジン音が響いた。ショートストロークのエンジン音でコーナーを抜けていく。男が4人、無言で乗っている。運転をしているのは目が細くちょっとくせ毛の男、ムダのないスライド走法だ。3人の中年の男達に混じって、中の一人はかなり若い。運転手が時々ミラーを流れる白々明けの街を片目で確かめる。時間通りだ。助手席の痩身の男がやっと、満足そうにタバコに火をつけた。

関西政財界を騒がせている盗賊団がいた。
いたらしいと言うほうが正しいかもしれない。盗難があっても表ざたになる事がないからだ。うわさだけがまことしやかに巷を騒がせていた。
ただ、事件が繰り返されるうちに、犯人グループのアウトラインがおぼろげに浮かんではきていた。どうやら、4~5人の男女の集団で、ひどくドライビングに長けたやつが一人いる。周到に練られた計画に従い、猫のように忍び込み、目当ての獲物だけを失敬して音もなく去って行くさまは、まるで手品師のようだ。一団のメンバーの中には美術品、宝石の専門家がいて、贋作を見分けているのも確かだ。最先端のロックを備えた金庫もまるで役に立たない。ターゲットは裏金、盗品、隠し財産。被害にあっても届けられない訳ありのものばかり。どうやら関西の政界財界の裏情報に精通しているとしか思えない。

だが、判るのはそこまでだ。それ以上は霧に包まれた盗賊団だった。


日本中がまだ高度成長期にあり、経済を楽観視していた1970年代、横浜に政財界が利用する社交クラブがあった。地上3階、地下3階の贅を凝らせた洋館で毎夜繰り広げられ豪華なパーティー。世界中から集められた美食、美女、酒、そして賭け事など全ての快感を体験できる。そこは娯楽を通り越して特権階級だけが愉しむ事の出来る世界だった。そのクラブに入ること自体が一種のステータスとさえ考えられていた。

クラブの名前は紐育(にゅーよーく)倶楽部。
支配人の三代目田中一郎は年は50代半ば、自他共に認めるやり手の男だった。丸顔で髪をきっちりと七三に分けている。客を迎える黒縁の眼鏡の下には人の良さそうな切れ長の目が笑っていた。
「いらっしゃいませ、橋本様。」
「今夜も楽しませてもらうよ。」
客はそう言うと左手に美しい女を従えて奥へ向かって歩き出した。
「どうぞ、ご堪能くださいませ。」
田中は慇懃に応え、歩いていく橋本に、深々と頭を下げた。下を向くその目からはたちまち笑みが消えていく。

「最後の栄華を楽しんでおられる。」
田中は老議員の背中を見つめながら思った。
橋本は大臣まで勤めた代議士だったが、長年にわたる建設会社との癒着が明るみになりボチボチ危ない地位に立たされている。

橋本の不祥事はこれが初めてではない。それが元で、内閣総辞職にまで発展した事もあった。それでも地元の支持は揺るぎがたく、選挙の度に不死鳥のごとく返り咲いてきた男だった。それが今度はそうは行かない事態に発展している。確実に刑事問題になり、橋本を陥れるであろう新事実を一部の人間が既に掴んでいるという。現時点ではまだ明らかになっていないこの事実を、田中はもう一月以上も前から把握していた。

紐育倶楽部を取り仕切る支配人たるもの、政財界の情報はいち早く察知するのが当然なのだ。
酒が入り、美姫を侍らせると男たちは一様に口が軽くなる。先々代から始めたこのシステムは未だに有効だった。この斜陽の老議員にしても、過去何年にもわたって貴重な情報を、そうとは知らずに田中に与えてきていた。しかし・・・
「あなたもここまでのお人でしたな。」
エレベーターのドアの向こうに消える橋本に今一度深々と頭を下げながら田中は呟いた。
しかし、田中にとって心配する事は何もない。代わりの情報源は勝手に集まってくるからだ。あとはいかに情報収集・取捨選択するかが腕の見せどころだった。いち早く情報を制するものが巨万の富を得る、それが資本主義なのだ。



三代目といっても、紐育倶楽部は世襲制ではない。前支配人が選んだ次期支配人は、倶楽部と田中一郎という名前を引き継ぐのだ。三代目は、5年前に二代目田中一郎に選ばれ、三代目田中一郎を襲名した。
人のよさそうな温厚な丸顔とはかけ離れた敏腕支配人。それが定着しはじめ、好景気に後押しされた倶楽部の経営は順風満帆であった。

そんなある時、疑獄で国会議員の秘書が2名続けさまに自殺した。当然のことながら、このことはマスコミの格好のネタになった。マスコミに終始付け回されるのを嫌った渦中の国会議員が三代目田中一郎に
「どうも、こう窮屈ではイカン、いっそ関西に支店を出してはどうだ。」
と言ったのがきっかけだったという。

東京で申し分の無い成功を収めている田中は自分の代で倶楽部を関西に進出させる事に、もともと大きな魅力を感じていた。日本を制するには、首都だけを押さえておけば良いと言うわけでは決してない。天災、人災で、都市が壊滅状態になる事を想定し、副首都を関西にという案が騒がれるのは何も昨日今日の話では無いのだ。多くの大企業、財閥も関西に第二本社とも言える支社をつくっている。それにつれ、関西で活動する議員の多くが、また財界関係者たちが、紐育倶楽部のような快楽の園を関西に求めるのは道理だった。

既に青写真は出来がっていた。これだけ政財界人が求めるということは、需要と供給のバランスが著しく傾いているということだ。いつまでも迷っていると鳶に油揚げをさらわれることになる。機転の利くやつならたちまち似たような社交クラブを作るだろう。

「機は熟した。」
多額の金が神戸に投入された。
まず、三宮の繁華街から少し離れた山手に位置する洒落たホテルが買収された。それは神戸のホテルらしく、外観も内装も精錬されており、夜になると客室から宝石をちりばめたような夜景を楽しむ事が出来ると定評のホテルだ。田中はこのホテルの裏に5階建てのビルを建てた。その4、5階に神戸の紳士クラブとなる会員制高級フランス料理店を作る為である。客たちは最高の料理と美しい女を1千万ドルの夜景の中で堪能するのだ。

「後は、人選だな。」
規模はかなり小さくなってもシステムは東京の倶楽部と同じだ。酒と美姫をあてがい情報を引き出す。これは、関西の情報を集めるべく田中の触手の一つになるべき重要な店なのだ。その為には多くの部下達の中から、最も能力があり、最も信頼できる男に絞り込む事が必要だった。
しかし・・・
できる男と言うのは腹の中に何を隠しているか分からないものだ。悪くすると、突然田中に牙をむいて来る事も考えられる。関西の店を極端に小型にしたのにはそれだけの理由があった。もちろん、店を倶楽部の支店として完全に支配下におく事もできるのだが、三代目は別のことを考えていた





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