Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー11

田中には情報収集部門を担当している石橋という部下がいた。
石橋は政界財界の情勢に精通しており、集めた情報の真偽を見極める天性の才があった。女達を教育し、プロの諜報員に訓練していくのも彼の仕事だ。沈着冷静で、感情に流される事がない。高い指導力と、判断力で部下達を引っ張っていく。たった5年で田中のクラブがここまで成功したのは、この男の才能に寄るところが大きいとも言えた。
年は40過ぎ、感情を殺した浅黒い顔に皺が刻み込まれている。大体が服装の精錬された倶楽部の従業員達の中でも、石橋の着こなしはスマートだった。さりげなく着こなしたブリオー二の襟元に、少し大きめの銀のラペルピンが光っている。どうやらそれはロケットになっているようだが、中を見た者はいない。
石橋は謎の多い男だった。倶楽部に来る前は香港でMI6の諜報員をしていたとか、フランス外人部隊である落下傘連隊に所属していたとかうわさには事欠かない。ただ、石橋の米兵嫌いは異常なまでだった。沖縄返還がまだ記憶に新しい当時だが、沖縄駐屯米兵が起こす事故や暴行事件のニュースが流れると、普段は眉一つ動かさないこの男が憤懣を露にする。彼の明らかにしない過去と、それがどういう関係があるのか、知る者はなかった。
つかみ所の無い男、それが石橋だが、田中が右腕として最も信頼する男だった事は確かだ。倶楽部の次期支配人、つまり四代目にはこの男が指名されるだろうと、誰もが推して疑わなかった。
しかし、問題はある。
あまり出来すぎる部下を持つというのは何かと争いの元になる可能性もあるのだ。
田中はまだ50代半ば。まだまだ引退する気はない。今はナンバー・ツーとして田中を助ける石橋が何時までも今の地位に満足している保障はどこにもないのだ。
神戸の店の案が出たとき、田中は自分の不安に終止符を打つ絶好の機会だと考えた。
「神戸の店を今取るか、わたしが引くのを待ってここで頂点に立つか。」
田中は石橋にこう迫ったのだ。

石橋は利口な男だ。三代目がこの先それこそ20年以上、支店長の席に留まるかもしれない。また、何時の日にか自分が晴れて四代目田中一郎に就任する時が来たとしても、あの三代目のことだ、目の黒いうちは何かと干渉してくるのが目に見えている。と言って、今すぐに地位を奪い取り、この柔和な仮面を被った獅子を敵に回すのはなおさら得策ではない。
神戸の店には何度となく視察に出向いている石橋だった。計画にも何かと口出しをしてきた。確かに規模は小さいが、その分、返って統制が取りやすいだろう。しかも三代目は神戸と東京を別物として扱うつもりらしい。それは神戸の店を、石橋の思うがままに動かす事が出来ると言うことだ。
「やってみたい。」
一週間後田中の執務室を訪れた石橋はオファーを承諾した。
石橋の答えに田中は満足げに頷いた。
「店はお前のものだ。好きにするが良い。ただし・・・」
三代目は続けた。
「男を一人引き受けてくれ。東京では命が無い男だ。」
手を打つと、控えの間から30代の痩せた男が部屋に入ってきた。 
「梶だ。」
田中はそれ以上説明しない。それだけが石橋に神戸の店を与える条件らしい。
梶と呼ばれた男は、事のいきさつを既に言い含められていると見え、石橋に向かって深々とその頭を垂れた。きびきびとした動作と、冷淡なまでに意思の硬さがにじみ出る顔つき。見るからに、頭もよさそうだ。石橋は男を一瞥し、そう判断した。
「承知しました。」
石橋はそれだけ言うと、梶を従えて、三代目の執務室を後にした。


石橋は神戸に移るに際し、当時の自分の部下の中から二人を選んで連れて行くことにした。
一人は興津といい、小柄で浅黒く、軽業師のごとくすばしっこい男だ。もう一人の原田はがっちり型で運転テクニックに定評がある。彼らは、未だ30前と若くはあったが、石橋が信頼を置く数少ない男たちだった。しかし、それよりも、石橋がこの二人を選んだのには、田中には明かしていないある目的があったからだ。
東京のクラブは紳士たちに最高の快楽を与えつつ、情報収集とその活用、売買で巨額の富を得ていた。支店ではないと言いながらも、田中は神戸の店の目的を東京同様に考えているに違いない。
しかし、石橋には一つ別の構想があった。
だぶつく所にはうなるようにあるのが金である。その中には公に出来ない金、財産、美術品も少なくなかった。情報収集の過程でこのありかが明らかになる事は少なくない。石橋は即金性のあるこの情報収集の副産物を見逃す手はないと常日頃考えていたのだ。
政財界の裏を揺るがす盗賊団を作る。
これが石橋が長年温めてきた計画だ。神戸の店が自分の自由になると言うことでそれが実現するかもしれない。
軽業師の興津と、走り屋の原田。この男達はその目的の為に必要なのだ。
それに、梶が加わった。
石橋にとっては厄介者を押し付けられたような形で同行することになった男だが、梶は使ってみると社交界のノウハウや、高級品、美術品に広い知識があり、大変役に立つ男だった。頭も切れ、判断力にも優れている。しかもこの男は石橋を命の恩人として献身的に仕えているのだ。田中が梶の過去をあれこれ説明しなかったのにはそれだけの危ない理由があるのだろう。石橋が首を縦に振ったことで梶が命拾いをしたというのは事実のようだ。
当初の不安をよそに、石橋は梶を引き受けたことを大きな幸運だと考え始めていた。この男は自分の計画を進めるために必要不可欠かもしれない。
「後はターゲットと、計画だな。」
石橋は一人、ほくそえむのだった。





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