Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れ 35

霞は、もう何年も前から店を引退したがっていた。コンパニオンは大方が、30半ばで店を去っていく。いつまでも出来る仕事ではないし、その頃には自分で十分店を開けるだけの蓄えも出来ているのだ。霞は、38歳、ラ・パルフェ・タムール開店以来のコンパニオンだった。彼女が、最初に引退を石橋に申し出たのはもう5年も前の事だ。その当時も、今も、彼女には何人もの常連客がおり、その多くが、決して彼女以外を指名しようとしない。そして、そのいずれもが石橋にとって失うには惜しい客だった。

始めのうち石橋は、霞に相当の給料を上乗せする事で、彼女を店に引き止めた。しかし、だんだんと、彼女の態度が変わってきたのだ。
「何とかいてもらうわけにはいかないのか?」
石橋はもう何度も言うこの言葉を繰り返した。
「石橋さん、もうお金はいいんですの。」
確かにそうだろう。彼女には既にこの先、数十年、遊んで暮らせるほどの蓄えがあるにちがいない。
「製薬会社の次長さんとは、もうお会いしたくありません。」
「どなたか他の女の子に変わってもらってください。」
霞は嫌悪をあらわにこう訴えた。
「あたくし、本当はサディストではありませんのよ。」
それは石橋も承知していた。
ラ・パルフェ・タムールでのコンパニオンの役割は客からの情報収集である。常に相手の嗜好を考えつつ先を読み上手く誘導する。彼女達は赤ちゃんプレイからハードなSMまで、何でもこなさなくてはならない。彼女達はほとんどがSの面とMの面を両方兼ね備えており、客に合わせて調整していた。ただ、霞の場合、その高貴な容貌のせいか、極端にMの客に人気があるのだ。
「渡辺次長が、お前以外では満足しないのは知っているはずだ。」
霞の言う、渡辺次長は、極端なMの男だ。同族会社で創始者の孫娘と結婚し、エリートコースに乗ったらしい。普段は自らの性癖をひた隠しにし、ここでその欲求不満を解消している。しかし、彼が店に足しげく来るようになってから、霞は頻繁に辞職を乞うようになっていた。

石橋は眉間に皺を寄せてしばらく考えていた。確かに、最近の霞は傍目にもそれと判るほど疲れて見える。真性Sでもない彼女に常にハードなSを演じろというのにはやはり無理があるのだろう。
「わかった。お前は今後、新しい客を取る必要はない。」
「それと、既存の客は出来るだけ、他のコンパニオン達に、割り振っていこう。」
石橋は、漸くこう言った。
「出来るだけとおっしゃると?」
「・・・渡辺は、もうしばらくは放せない客なのだ。」
「それでは、辞めさせていただくしか、仕方ありませんわね。」
あっさりと石橋に背中を向ける霞に、石橋は慌てた。
「望みを言ってみろ。」
「・・・・」
霞は振り向いて、石橋に目をもどすと、
「要ちゃん、戻ってきましたわね。」
と言った。
石橋が、その意味を解しかねていると、
「・・・では、かわりに、要ちゃんをいただけるかしら。」
と微笑んだ。
それが、渡辺を受け入れ続けることに対する霞の交換条件だった。霞の鬱が強制的にやりたくもないSを演じさせられる性的欲求不満から来ているのは明白だ。それなら、その不満を満たしてくれる男さえいればいいのだ。
18歳の要は、身体は大人でも、まだその手の事は経験もなく何も知らない。それは病院での一件で霞にはわかっていることだった。つまり、私が自分好みに染めていけばいい。霞の心の内を読んだボスは、
「好きにしろ。」
と吐き捨てるように言った。





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