Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー37

将来、美貌のコンパニオンになる素質があると考えられた桜だが、それ以上に石橋が桜に期待したのは、要の後釜としてのポジションだった。要の右足はリハビリが功を奏してようやく元通りに動くようになっていたし、事故が元で増えてた体重も、本人の過激ともいえる減量でかなり減ってきている。しかしながら、限界が近いことは誰の目にも明白だ。二十歳を目の前にした要は鍛えれば鍛えるほど筋肉が付き、ますます逞しくなってきている。今は再び興津とペアを組んで現場に復帰していたが、それが長くは続かないであろう事は火を見るより明らかだった。
ただ、興津は始めの内、桜を訓練する事に難色を示した。
彼は忍びこむときの緊張感がたまらなく好きなのだ。いくら調べて部屋の状態が分かっていても不測の事態というのはある。ガードマンが変則的な動きをする場合もある。人間のすることは気まぐれだ。忍び込んだとたん懐中電灯の灯りがドアの下から見えることがある。突発的な状況をいかに瞬間的に判断して躱すか。心臓がバコバコ早鐘のように打ち始める。それと共に頭の中が高速で回転し始め、そして、一瞬にして、スーっと冷静になるのだ。興津にとってその瞬間には、例えどんないい女を抱いても得られない快感がある。この嗜好には病的なものさえ感じられた。

この仕事は女の領分では無い。女には勤まらない。興津はそう主張した。
一見愛想良く見える興津だったが、こと仕事のこととなると、シビアを極める。興津にとって女とは、美しく、可愛くさえあれば、それで良いという、既成観念があるようだった。要の代わりは確かに必要だが、よりによって、なぜそれが女なのだ?
「これは、命令だ。」
結局石橋に押し切られた形で、興津はしぶしぶこの役を引き受けた。

桜の柔軟体操とランニングが終わると興津は2メートルの梯子を引っ張り出してきた。要もやったあの梯子のトレーニングだ。ただ今度は梯子はいきなり立てられた。興津は桜の持久力よりバランス感覚を試したかったのだ。
バランス感覚は、持って生まれたものがかなりのウエイトを占める。それが欠如していては、訓練するだけ無駄と言うものだ。興津は梯子を3つ並べ、片足を梯子の升に入れながら素早く移動して見せた。身体をひねってクルリと回る。不安定な足場でバランスを崩さず移動する。しなやかに右から左へ、上から下へ流れるように興津は動く。確かに体重がかかっているはずの梯子が床に固定されたごとく微動だにしない。
「やってみろ。」
降りてきた興津が桜に言う。
見よう見まねで梯子によじ登った桜だが、縁に足を引っ掛けて、たちまち転倒してしまった。床に転げる桜の上に梯子が倒れる。始めの数週間はこの繰り返しで、桜の体は青あざだらけになった。
しかしながら、桜は持ち前の負けん気で興津の訓練に耐えた。それに加えて小柄な体つきと柔軟な四肢が彼女をめきめきと上達させていった。バランス感覚はもちろんの事、注意力も並外れている。訓練が始まって3ヶ月もすると、さすがの興津もそれを認めざるをえなくなってきた。
「桜にはセンスがある」
いつもにはなく真剣な口調で言う興津に石橋は、満足そうにニッと笑った。
興津のお墨付きが付いた事で桜の道が決まった。それに従って課題が増えていく。平均台、綱渡り、ロッククライミング、バランスボール。アクロバットまがいの訓練。
「猫のように動け。」
それが、興津の口癖だった。彼の訓練はまるで、サーカスの団員を養成しているかのようだ。元々バランス感覚には優れていた桜だが、新しい訓練が追加されるたびに体中に青あざができる。捻挫や、擦り傷も毎日の事だった。興津は女には絶対手を上げない。それでも、彼の訓練の厳しさは並大抵ではない。節々がいたい。それでも訓練は一日たりとも休ませてはくれない。休むと身体が鈍ると興津はいうのだ。
 何が若い桜を支えていたのだろう。大人達を時に驚かせる少女とは思えない頑張りが彼女にはあった。そして、店にきて2年後、彼女が12歳の春には桜は興津の補佐として、仕事に参加するまでになっていた。





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