Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー43

雑居ビルの火事の30分後には犬飼明は神保町にある古びた8階建てのビルの5階にある出版社を尋ねていた。
炎上したビルから逃げ出した犬飼は現場近くの公園で手早く顔と腕の汚れを洗い、服の乱れを出来るだけ整えた。なるべく人通りの多い道を選んで繁華街へ出るとパチンコ屋で「悪いな、ちょっとかしてくれ。」と、自転車を一台失敬する。それを神保町の交番近くで乗り捨てて、この出版社までは歩いて来た。
犬飼が数ある出版社の中から迷わずここを選んだのは、ここには昔から犬飼明の記事や写真を買ってくれる政治と社会問題に鋭い切り口を持った編集長がいるのだ。情報屋の遺言になってしまったこのネタが本物なら、あの編集長が食い付かないはずがない。まだあいつの情報の裏も何も取れていない状況だが、この秘密の為に、情報屋が命を落としたのは明らかだ。
出版社のドアを開け飛び込んできた旧知のルポライターを編集長は目を丸くして迎えた。公園で簡単に洗い流してはきたが身体中、汗とススにまみれシャツもところどころ破れて血が滲んでいる。何時もとんでもない格好でここに飛び込んでくるこの男に慣れっこの編集長も、今回は少なからず驚いた。
「なんだ、煙突掃除でもして来た出で立ちだな。」
編集長の冗談を無視して、犬飼は窓から下の道路を確認しそのブラインドを閉めた。そばにあった椅子にどかっと腰を下ろすと、やっと肩で大きく息をし、編集室を見回した。
壁には返品の本が山のように積まれ、6つあるデスクには資料が溢れている。部屋には編集長と、電話で話しをしている編集者が一人いるだけで、あとの人間は出払っているようだ。いつもと変わらない部屋の様子に犬飼はやっと気持ちが落ち着いてきた。
「どうも、追っ手は色っぽい姐さんじゃないみたいだな。」
熊のような体に下駄型の顔、太い眉と大き目、その上一際目立つ大きい口の編集長は、面白そうに言う。
「30分前の新宿のビル火災、まだ知らないんですか?」
「単なる火事だろ?」
犬飼が、睨んだ。
「おいっ テレビをつけろ!」
編集長が怒鳴り、編集者があわてて電話を投げ出しテレビのスイッチを入れる。丁度、現場からの実況中継が画面に映し出された。
「・・・本日午後2時過ぎ、新宿の雑居ビル4階でガス爆発があり、爆発に伴う火災で同ビルの4階と5階が全焼しました。この火事で、逃げ遅れたと見られる5階の飲食店従業員、佐竹 守さん32歳が転落。病院に運ばれましたが、全身を強く打っており間もなく死亡が確認されました。爆発があった4階はテナントの入居がなく当時無人であった事から・・・」
リモコンを渡された編集長は音声をミュートにし、犬飼を振り向いた
「ふん、事故か故意かってとこだな・・・それで、これがどうしたんだ?」
「30分前までそこにいたんですがね。」
シャツの袖で汗を拭きながら、犬飼が言う。
「おいおい、まさかお前の仕業か?」
編集長が身を乗り出しながら、冗談とも本気とも取れる口調で言った。
「冗談じゃない、俺もすんでで黒焦げにされるところだったんだ・・・」
そういえは確かに犬飼の服はあちこち焦げている。
「ホットドッグになるところだったんだな・・・」
親父ギャグに苦笑しながら、犬飼は編集長に昨夜からの一連の出来事を掻い摘んで説明した。
昨夜暖かい懐で飲みに行ったトリニティー、そこで情報屋に会った。情報屋は、横浜にある紳士クラブで夜毎よからぬことが行われていると言っていた。何人かの代議士や、財界の大物の名前が上げられた。どうも軍事がかかわっているらしい。情報屋とは1時間あまりあそこで飲んで話し込んだ。それから今晩もう一度会う約束をして別れた。そして今朝、まずその情報屋が死んだと匿名の電話があり、状況を調べる為にトリニティーの佐竹を訪ねたらあの爆発事件が起こったのだ。
ふんふん、と聞いていた編集長は、
「トリニティーだって?ああ、そういえばニュースで佐竹とか言ってたな?・・・え?たけちゃんのことか?」
やっと気づいたようだ。急にしんみりして、
「・・・・・俺も時々行ってたんだがなあ。結構気に入ってた・・・」
と独り言のように言う。
「たけちゃんは多分何も知らなかったんだろう。情報屋が俺に会ったのを知ってただけで殺されちまった・・・」
犬飼は屋上から落ちていった佐竹の顔を思い出していた。あの状況ではどうしようもなかったとは言え、救ってやれなかったことが悔やまれる。2人はしばらく黙ったまま目を床に落とした。

「で?」
編集長が先に頭を上げ、犬飼を促した。犬飼は編集者の耳を気にして声を落とす。
「まずは情報屋の言う政財界御用達の秘密クラブを探し当てなければどうしようもないでしょうね。話はそれからだ。」
太い眉が寄って縦皺を作った
「確かに・・・」
編集長が目を天井に泳がせながら言った。
「・・・昔からそういった紳士クラブの噂はあるが・・・。」
「編集長、このヤマはどうしてもあんたに買って欲しいんですよ。」
犬飼は、編集長を真っ直ぐ見据えて訴えた。
「軍資金が欲しいってわけだな。この件に関して本当に確信はあるのか?」
編集長はルポライターに目を戻した。察しはいいが、慎重な男だ。
「もう2人も死んでるだ。」
犬飼は、吐き捨てるように応えた。
「じゃあ、お前も当然狙われているな。3つ目の死体になりたくなければ止めておいたほうがいいんじゃないのか?」
編集長は椅子に深く座りなおした。犬飼は何か大きな得体の知れない物に一人で挑んでいく自分の無鉄砲さを一瞬かえりみた。情報屋や、佐竹の死。横浜で起こっている不正。何も聞かなかった、知らなかったことにして、忘れてしまうことが自分に出来るだろうか?
答えはNOだ。真実を伝えたい、その言葉が頭の中に沸々とこみ上げてくる。
売られた喧嘩を買わないのは俺の意地が許さない。それよりなにより、犬飼が恐れをなして手を引いたところで、向こうが自分を諦めるとは思えない。





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