映画『生きる Living』を見てきました。
- カテゴリ:日記
- 2023/04/01 18:13:21
2月3月は、私の充電期間。
なので、ひたすら出歩き、野山を歩き、映画を見ていました。
野山歩きは、
まず三浦半島のいつものルート。
東京湾側の田浦から相模湾側の森戸海岸に抜ける三浦アルプス。
次に、東京湾側の衣笠から相模湾側の立石に抜ける大楠山。
そして、朝比奈切り通しを抜けて鎌倉に入り、
鎌倉をぐるりと巡る鎌倉アルプス、最後は鎌倉の前浜である由比ガ浜歩き。
最後は、昨日の丹沢・大山登山。
蓑毛からヤビツ峠に出て、山頂へ。
その後、雷尾根を下って、日向薬師へ降りるという、
1000m登って、1000m降りてくるルート。
いやあ、またもや筋肉痛です。
舞台は、新国立劇場のクラッシックバレエ
『コッペリア』。
この作品は、安寿に言わせれば、
老いた人間の孤独と寂しさ、
そこから生じる人形への執着、自らが作り上げた人造人間との愛ある暮らし、
それを、若者たちの無邪気な恋がぶち壊していくという、
とても残酷なバレエなのです。
次に映画。
『ケイコ 眼をすませて』
岸井ゆきのと三浦友和がすばらしい。
パラリンピックのような、
障害者でも「やれば、できるんだ」といった物語に
なっていないところが素晴らしいです。
音や声、音楽の使い方(正確には、音楽を使わないのですが)、
この手法も、聴覚障害者の世界を、
私たちにも疑似体験させて、得がたいものがあります。
『すずめの戸締まり』
新海誠監督のアニメとしては、これが一番好きです。
この映画監督は、作り手の成長が着実にわかるタイプの監督だと思います。
これは、すずめという高校生が、
偶然日本中を旅することになり、
日本各地で災厄を引き起こす扉を閉めて回る話であると同時に、
すずめ自身の心、
過去の自分の心も整理する、その点で戸締まりをするアニメです。
ちょっともったいないと思ったのは、
現在のすずめが、過去の4歳のすずめに、
前に進むように声をかけてあげる場面。
もっともっと今の自分を肯定的に語ってもいいのではないかと思ったのですが、
しかし、現在の高校生が自分自身のことを肯定的に語れるだろうか、
人生について何かしら前向きになれるようなことを語れるだろうか、
それを考えると、むしろこのような語り方の方が、
無理がないのかもしれません。
『イニシェリン島の精霊』
評判がいいので、見に行きました。
これは、愚かな人間たちについての寓話。
アイルランド本島では内戦が起きていますが、
アイルランドの架空の島、イニシェリン島では対岸の火事。
政治の話など、まったく関係なし。
なのに、そのイニシェリン島でも、
つまらぬ事で諍いが起き、やがて事態は、
抜き差しならないものとなっていく。
素朴だけど、退屈していて、
しかも、愚かな人間たちは、
つまらぬ事で諍いを始めるのです。
そして、それはやがてエスカレートして、戦争へと至るのです。
対岸のアイルランド本島からの砲声が聞こえなくなった時、
その事について話し合う二人は、しかし、
「でも、また始めるさ」と語ります。
そう、それと同じように、
イニシェリン島でも、大した理由があるわけでもないのに、
つまらぬ諍いは発生し、やがて事態は抜き差しならなくなり…
どうして、そうなっちゃうの?
みんな退屈していて、しかも愚かだからさ。
『生きる Living』
今日、映画ファーストディに見てきました。
(ちなみに、この映画の中でも「映画の日」なるものが語られます。
イギリスにも、そのような日があるの? 昔からあったの?)
言わずと知れた黒澤明監督の『生きる』を、
同時代のイギリスに置き換えてのリメイク。
これは原作『生きる』の様々なモチーフを忠実に、
しかし、単なる焼き直しに陥ることなく、
見事に新たな物語として仕上げた作品だと思います。
亡き母の霊柩車を、後を追う車の中から子どもが叫ぶシーン、
ウサギの玩具のシーン、
雨の中の現場視察のシーン、
そして、雪の中のブランコのシーンなど、
原作にとことん忠実なのです。
と同時に、お通夜などの風習がないイギリスですから、
原作におけるお通夜での同僚たちの思い出話は、
まったく新しいシチュエーションで描かれますが、
しかし、そこで語られる内容と決意とは、
やはり原作に忠実と言えます。
それでいて、原作に寄りかかっていない。
しっかりと、一つの独立した映画として成立しています。
原作との大きな違いを指摘するとすれば、
原作の方は、人間の描き方がコミカルですし、シニカルです。
これは、人間が自らの死を目前にした時、
アタフタし、何かに縋り付こうとする姿が、
時にコミカルに映りますし、
人間をそのような存在として描き出す映像には、
人間というものに対する、かなりシニカルな視線が含まれているからです。
それに対して、
この映画の主人公は、
原作と比べると、遙かにしっかりしています。
元同僚の若い女性に対して、
彼女の溢れるバイタリティーについて問いかける際も、
そこには何かに縋りつく感じがありませんし、
自らの彷徨いに決着をつけ、職場へと戻る時も、
その意思を彼女にハッキリと告げます。
その点で、自制心の強い人物として描かれています。
ですから、そのように描き出すカメラの視線にも、
シニカルなものを感じません。
原作では最後に、官僚組織に対する若い職員の嘆きを描き、
それはそのまま官僚組織に対するシニカルな視線を投げかけて終わるのですが、
この作品では、最後のシーンが入れ替わっていて、
最後のシーンが、雪の中でのブランコのシーンと、
子どもたちが遊ぶ公園のシーンになっています。
ですから、旧態依然とした官僚組織であっても、
そこで人間としてなし得ることはあるのだという終わり方になっていますし、
そのことを若き職員に伝えるシーンになっています。
雪の公園で死にゆく彼を見かけながらも、
声をかけなかった警官は、
「彼がとてもHappyに見えたから、声をかけなかった」と語りますが、
それに対して、若き職員は、
「そう、彼はHappyだったのだから、それでよかったのだ」と答えます。
もしこの映画の大きな貢献を指摘するとすれば、
それは「生きる」というテーマを、
明確にHappyという事柄と繋げた点、
Happyとは何か、
私にとってHappyとは何かという問いに
繋げた点ではなかったかと思います。
さて、明日からまた、仕事かあ… ☆\(ーーメ)
あ、まだ、エブエブを見ていない! ☆\(ーーメ) ☆\(ーーメ)