Nicotto Town



5類移行の今、あえて言おう

恐らくこの日記を読んだ方の多くは、不快感を覚えることでしょう。

でも、いい機会なので、あえて書いておくことにします。これでここへの来訪者が誰もいなくなってしまったとしても、致し方がありません。


結論から言えば、私は新型コロナの概要が判明した時、こう思いました。

「ああ、淘汰が始まったんだ」

まったくの謎のウィルスから、徐々に正体が判明し、そして高齢者や基礎疾患を持つ人の致死率が高い、という情報が耳に入った時、わたしの率直な感想は先述の通りでした。

超高齢化社会。

それは医療と生活環境が高度に発展した結果です。
年金制度の破綻は、科学の進歩に伴う必然です。言葉を選ばすに端的に言うならば…



自然の摂理として「死ぬべき人が死なない」世界の現実



…これが超高齢化社会を一言で言い表す表現だと思います。
年金制度の問題は、現状のシステムをベースにする限り、なにをやっても表層的な対症療法にしかなりません。あたりまえですよ。だって、死なないんだもの。死と誕生のバランスが、あるべきバランスを崩せば、当然に年金制度は破綻します。

そういう意味では、高齢化とセットで考えるべきことは、もちろん少子化です。この高齢化と少子化という、ベクトルの対極に位置する状況が同時に起きてしまっている不幸は確かにあるのですが、しかし片方の少子化がなかったと仮定しても、そのプロセスが少々緩慢になるだけで、年金制度の破綻はいずれにせよ発生します。


話が複雑になるので、ここで少子化の話はしませんけどね。。


老いれば死ぬ。
致命傷を負えば死ぬ。
食べられなくなれば死ぬ。
排泄が出来なくなれば死ぬ。

これが、生物のあるべき摂理です。
医療の発展とは、この生物のあるべき摂理を否定する作業でした。それを悪いと切り捨てることはしません。ある意味で、その恩恵を私も受けています。

しかし、「死なない」あるいは「死なせない」という不合理な状況が、人間社会の諸悪の根源となっていることも、実際です。





新型コロナの蔓延により、高齢者や基礎疾患を持つ人が重篤化して亡くなる。




わたしは、それは人類の希望だと思いました。




この世界が、摂理を取り戻そうとしている。




というようなことを言うと、100%の確率で言われます。








身近な人を亡くした当事者の気持ちになれ、と。







言いたいことは分かります。
しかし、まさにこれが諸悪の根源なのです。






例えば、わたしが新型コロナによって、大切な家族を失ったとして、お前はそんなことを言えるのか、と。



明確に答えます。







言えますよ。






確かに、例えば私の子供が新型コロナで死んでしまうことがあれば、86歳にな父が死んでしまったら、もちろんそれは悲しい。立ちなおれないほどに泣いて日々を過ごすことになるかもしれません。



しかし、それは「私個人の感情」です、



私個人の感情をベースに物事を語ってしまったら、じゃあ誰が「社会としての大局的な判断」を語るのですか?



私の息子が、娘が、新型コロナで死んだでしまったら。
頑張って生きて来た父が死んでしまったら。
それは先述の通り、もちろん悲しい。絶望的な悲しみを抱えることになるでしょう。でも、その「私個人の感情」と、「社会を司る論理」は切り分けなければならない。

この切り分けという「個人の感情と社会の在り様という、「けじめ」をつけることが出来ない大衆」に色目を使わないとならない政治。





これが、民主主義という政治形態の、決定的な欠陥なのです。





この日記で、何度かこの言葉を使いました。



「生きることへの節度」



それを社会全体が理解しない限り、世界は不条理なままなのです。




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