Nicotto Town



アンドロイドは電気羊の夢を見るだろうね

ChatGPTがどうこうと騒がしい最近。

実際に使ってはいないが、大体の雰囲気は掴んでいるつもり。AIのシステム的な構造も、いちおう基本だけ理解しているつもり。

AIに仕事を奪われるという昔ながらの話。
産業革命の時だってそうでしょう。単純労働がテクノロジーによって代替されていくのは昔から変わらない。それ以上に語る価値もない。

仕事を奪われた人たちはどうする?
自分でどうにかしてくれ。


ChatGPT


凄いなと思います。
ここまで出来るのかと心から驚きます。
純粋にテクノロジーとしては。

じゃあChatGPTは我々の生活の現実として、そんなにも騒然としなければならないのか?

先日なんかのフリーライターが「SDGsについて今後の取り組みはどうあるべきか」とChatGPTに問いかけたら、凄い回答が返って来た、ライターのやることがなくなってしまうみたいな記事を書いていた。ChatGPTが返して来た回答も、もちろん私は読んだ。


そうね、あなたの仕事はなくなるかもね。


破綻のない、よく出来た回答だった。
これが仕込みではなく、その場での質問に対しての回答だという事は、テクノロジー的には確かに驚愕する。でもその回答の内容はどうなのか。


「あたり障りのない中庸な、新聞やニュースにある程度は触れていれば、高校生でも書けるテストの模範解答レベルの文章」


繰り返すが、このテクノロジーは凄いと思う。しかしその内容は、破綻はないが稚拙としか思えなかった。そんな文章を読んで、ライターのやることがなくなってしまうなどという事を平然と書けるようなフリーライターの仕事は、そりゃなくなるだろう。


ChatGPTは、この世に出回る情報の最大公約数を語っているに過ぎない。だから、間違えをしない限りは破綻のない回答を確実に返してくる。
だがそれ故に、そこには目新しい視点、思いもよらない批判、大胆な提案はない。社会性の強い問いになればなるほど、一般常識や標準的な世論にからめとられて、恐らくその傾向は強くなる。

将棋のAIは、想像もしない一手を打って来るじゃないか、という話は確かにある。
でも、たぶんそこには大きな隔たりがある。

将棋はルールさえ逸脱しなければ、勝ちさえすれば何でもアリというある意味での無法地帯。しかし論評は、日本語のルールを逸脱できないと共に「意味が通じ、理解を得られる文意」を作らなければならない。この差は果てしなく大きい。
よく言われる「AIの自己説明性の欠如」が、論評では問題になるケースが想定されるが、将棋ではどうだろう。勝利という結果さえ出れば、たぶんロジックはどうでも良くて、確率論的に勝てる道筋が見えればそれでOK。言ってしまえば、論評は将棋でいうところの穴熊とか雁木囲いといった、一般的に多用される戦法を踏まえて戦う制約をAIに与えているようなものだ。

いずれにせよ、「一般常識や標準的な世論にからめとられた、あたり障りのない中庸な、新聞やニュースにある程度は触れていれば、高校生でも書けるテストの模範解答レベルの文章」しか書けないライターの仕事はなくなるかもしれないが、「目新しい視点や、思いもよらない批判や、大胆な提案」のできるライターの仕事はなくならないだろう。


本当にそうか?


2020年、大戸屋がコロワイドによって買収された。その時に話題になったのは、大戸屋の美味しさを提供するための店内調理という手作りへのこだわりが失われるという話。
しかし蓋を開けてみれば、利用者の多くが大戸屋がセントラルキッチンを採用せず店内調理にこだわっていたことを知らず、そしてセントラルキッチンが一部採用されても大概において味が変わったとは感じていないという結末だった。

この件の良し悪しは問わないが、一つ言えることは、目に見える分かりやすいことは単純に評価をされてしまうが、評価対象が質的なものになればなるほどその差分は評価されづらくなり、そもそも差分を認識されることすらない可能性が高まる、ということだ。


話をChatGPTに戻そう。
「一般常識や標準的な世論にからめとられた、あたり障りのない中庸な、新聞やニュースにある程度は触れていれば、高校生でも書けるテストの模範解答レベルの文章」を、受け取る側が納得し満足するのであれば、「目新しい視点、思いもよらない批判、大胆な提案」の価値は相対的に小さくなり、ChatGPTで十分という落としどころに向かってしまう可能性はある。


俵万智が、AIによって詠まれた短歌を目にし、出来の良いものがあって参考になる、とコラムで語っていたことがある。わたしもその短歌を目にしたが、確かに「オッ」と思うような出来のものもあった。では、それを持ってAIが人間と同じように短歌が詠めると言えるのか。

中原中也の詩に「汚れつちまつた悲しみに、今日も小雪の降りかかる」という一節がある。これをAIは書けるのか。結論から言えば、恐らく書ける。
先述した将棋AIを引き合いに出すならば、同じく日本語として破綻をしていなければ何でもアリで書かせれば、例えば「泥にまみれた切なさが、トタンの屋根に降り積もる」なんて詩が出てくるかもしれない。ちょっとばかり中也の詩に似ているではないか。

しかしChatGPTは、自らが作り出したこの詩の文意を、自分で全く理解していない。言ってしまえば、日本語の文法内で、過去に書かれた大量の文学作品データをもとに成立しそうな単語を組み合わせているだけで、そこには意図も意思も感情もない。

表面に見える言葉として表出してしまえば、それは言語という記号によってあらわされた一連の文字の羅列でしかなく、「汚れつちまつた悲しみに、今日も小雪の降りかかる」と「泥にまみれた切なさが、トタンの屋根に降り積もる」は等価だとも言える。

じゃあ何が違うのか。

それは「汚れつちまつた悲しみに、今日も小雪の降りかかる」は、それが生み出されたまさにその時に、すでにその詩の持つ意味が内包されているが、「泥にまみれた切なさが、トタンの屋根に降り積もる」は、読まれ、読んだ人がそこに意味を見出すその時まで、何の意味もないということ。

どちらも言語の羅列としては等価ならば、それはどうでも良いのではないか?

難しい判断だ。
偶然だろうがなんだろうが、最終的に言葉として力を持つのであれば、それでいい。それも判断の一つだろう。

でも、まさにそこじゃないのか。

それでいいとバッサリと割り切れない感情。
生き、悩み、悲しみ、迷い、苦しみ、喜び、そして死んでいく人間が、絞るように書いた詩と、順列組み合わせ的に現れた偶然の産物は等価に受け取らない心。それが人が紡ぐ言葉と、機械が紡ぐ言葉の差ではないのか。それを感じる必要がない、感じないというのであれば、もはやそれはChatGPTに軍配が上がることを許容するしかない。

ChatGPT云々の論議は、それを使う側というよりも、受け取る側の問題なのだ。
学生がChatGPTで作った「あたり障りのない中庸な、新聞やニュースにある程度は触れていれば、高校生でも書けるテストの模範解答レベルの文章」に、教授が優をつけるならば話は終了だ。しかし「なにこの詰まらないレポート」と言って不可をつけるならば、それで良いだけの事じゃないか。

大戸屋の話も、中原中也の話も、結局そういう事だろう。

人はパンのみに生きるにあらず。

アバター
2023/05/30 11:37
~追記2~
上記日記は、あくまでも市井の一個人の生活レベルでの話です。政治レベルとかいうことになると、もっと話は複雑なので、そっちは横においてます。
アバター
2023/05/29 12:24
~補足~
ChatGPTを始めとする生成AIは、使う側がツールとして有意に活用すれば、素晴らしく便利なのだと思いますけどね。私は基本的に肯定派ですよ。そろそろ利用登録しようかな。。



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