Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー87 (2)

石橋は、少し考えてから、
「わざわざ、関西までお越しになったのですから、芦屋の庄司殿をお尋ねになってはいかがでしょう。」
石橋の言う庄司は数年前に一線を退いた代議士である。元は東京に住み、倶楽部の客であった。
一線を退いた今でも、政治にかなりの影響力のある人物だ。
「庄司殿が芦屋に?」
「神戸の店も贔屓にしていただいておりますので、ほかにも・・・」
石橋は、庄司と同様、元倶楽部の客で、今は関西に拠点を移した人物の名前を次々と挙げる。
田中はしばらく考え込んだ。
倶楽部を何日もあけるのは、心配だが、東京から関西に流れてきた政財界人も多い。
この機会に、顔をあわせておくのは、悪くない。
「支配人が、そのおつもりなら、面会の手配をいたしましょう。」
石橋が畳み掛ける。
田中の注意が勝見からそれるのなら、言う事はない。梶の方を見て、
「車と、運転手を手配してくれ。」
と言った。
「かしこまりました。後ほど、客のリストをお持ちいたしましょう」
梶が慇懃に頭を下げるのに、満足そうに頷き、田中はグラスのワインを飲み干した。
梶がボトルを取りワインを田中のグラスに注ぐ。田中は普段から何事にも簡単には納得しない男だ。
疑い深いといっても良い。
しかし、替え玉を使った作戦にまんまと引っかかり出鼻をくじかれた後ではどうしても切返しが甘くなっている。
「石橋、このワインはなかなかいい。もう飲み頃になっているようだ。」
そういうと梶に石橋のグラスにも注ぐように命じた。
石橋の口約を得て明らかに田中の機嫌が直ったらしい。石橋は田中に会釈すると、注がれたワインを手に取り、色や香りを見ていたがそのまま口もつけずにグラスをテーブルの上に置いた。
「・・・・」
石橋がちらりと目を向けると梶は意味ありげに口の端に笑みを浮かべた。
「そろそろ魚料理です。白をお持ちしましょう。」
まだ半分残ったボトルを恨めしげに見る田中を尻目に 梶はさっさと赤ワインを下げて部屋を出て行った。

厨房まで来ると梶は田中のテーブルから下げてきたワインボトルをシェフに渡した。
「せめてシチューに使えるだろう。」
シェフは、ワインのボトルと梶の顔を交互に見つめた。有名シャトーのビンテージワインをシチューになどとは、前代未聞だからだ。
シェフは怪訝な顔をしながら受け取ったワインを小さなグラスに注いで味見をした。
「うう、これは・・・」
思わずその顔を顰める。
ボトルのラベルと中身が全く違うのだ。
「・・・一体どちらで仕入れられました?」
と聞く。
「神戸のスーパーのワインセクションは、なかなかセレクションが豊富だな。」
梶はシャトーのラベルを国産ワインに貼り付けて田中に出したのだ。
案の定田中はラベルの名前に惹かれて安ワインを絶賛した。
「相変わらず、ワインの味はお解かりにならぬようだ。」
ふっとため息を漏らす梶の横顔は珍しく楽しげであった。





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