Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー89

ホールに戻ると、床の残骸はあらかた片付いており、野次馬の女達がのろのろとエレベーターに向かっているところだった。

要はその中から桜を見つけ出して手を振った。
『話があるんだ。』
のジェスチャーを察して、桜が戻ってきた。

「明日から1週間休みになったんだ!」
「うそ!」
他の従業員にとっては週休1日の店であるが裏の仕事がある桜と要にとっては休みはなしと言ってもいい。
一日休めるだけでも珍しいのに一週間ぶっ続けで休めるなど青天の霹靂だ。
「それに、梶さんがヨーロッパ行きなんだ。」
要には、店が休みになるより、こちらの方が嬉しい。要に同意してにこりと笑った桜は、急に真顔になって、
「ああ・・・」
と納得したように頷いた。
「代わりのシャンデリアを買い付けに行くのね。」
芸術、美術品に関しては梶に次ぐ知識を持つ桜である。天井から下げられた芸術性の高いシャンデリアの価値を本当に知っていた一人なのだ。
「スワロフスキーのシャンデリアだったもの・・・・」
と、顔を曇らせた。大方の人にとっては単に値の張る装飾品だろうが、彼女は一つの美術品が失われた事を単純に悲しんでいるようだ。
「それで、昨晩話した替え玉の件だけど・・・」
要が要点に入る。
「ああ!」
「一週間、俺に付き合ってくれるよな?」
桜の顔がたちまち明るくなった。
「じゃ、すぐに髪を何とかしなきゃ。」
「うん。ごめんな。」
要はすまなそうに桜を見た。桜は全く気にしていない様子でニコニコしている。彼女にとっては恋人と一緒に過ごせる一週間のためなら、髪型などどうでも良い事なのだ。要も微笑み返し、
「多分寝起きは友達の家になるから・・・」
と、準備をしてくれるように頼んだ。
「わかったわ。後で荷物、持っていくね。」
とエレベーター・ホールにいそいそと駆けて行った。

要も自分の着替えを準備するため部屋へ向かった。
ひろみを探したり、謎の組織を攪乱したりといった気の抜けない仕事だというのに、わくわくする。
大方、荷物がまとまる頃に、桜が自分の荷物を持って部屋に来た。
女の荷造りにしては信じられない速さだ。
パーマをあてるのに時間がかかるのを気にしたのだろう。
「お昼までに戻るから待っててね。」
と言い残し、美容院に出かけていった。要にはその間にしなければならない事がある。

任務遂行の為に好きに使ってくれと言って犬飼はバンとオフロード・バイクを一台置いて行った。
しかし、神戸の町を走り回るのに、あのバンは大きすぎる。
要は原田のガレージまでエレベーターで下りていった。
エレベーターの箱から飛び出した要は原田をいつものワークベンチに見つけると駆け寄りながら叫んだ。
「原田さん、たしかYZRがあったよね?」
原田は先週仕入れてきたあの工場長が作った怪しいタービンキットを弄繰り回している手を止めて要を振り返った。
「ああ、俺の宝物だ。」
原田はガレージの奥に歩み寄りYZRのカバーを摘んで持ち上げ、中をちらりと覗かせた。
「それを貸して欲しいんだけど・・・」
要が下から覗き込むようにして原田を見る。
「こいつは絶対だめだ!」
原田はにべも無く要の願いを断った。
「やっぱりだめかぁ。」
要はがっかりした顔を作った。
レイニーを世界チャンプに導いたヤマハの最高峰グランプリマシンYZR500を原田が決して誰にも触らせない事は初めから判っていた。
ただ、駆け引きとして一番だめなものを言ってみたのだ。
大げさにしょげ返り自分のCBに向かってとぼとぼ歩き始めると、案の定原田は、
「それ以外なら聞いてやるぞ。」
と、背中に声をかけた。

その言葉を待っていたように要は振り返ってころっと態度を変えた。
「ドッジのピックアップがありましたよね?」
『臭い芝居をしやがる。』
原田は可笑しさをこらえて
「おっ 今度は4輪か?」
「あれだったら、大型乗用車を弾き飛ばせますよね?」
「ああ、確かにな。」
「大事に使いますから、あれを貸してください。」
「車を弾き飛ばして大事に使うとはね、言ってくれるな・・・」
原田は声を上げて笑った。
「だが、時間はあるのか?あれはこの間マフラーを変えてから乗っていない。調整が必要だ。」
「えっと・・・昼には出たいんです。」
桜が昼までに帰ると言っていたからだ。
原田は時計を見て、
「それじゃ、2時間で出来ることか?」
と、しばらく考えていたが、指を一本立てて
「排気効率が変ってる。ビッグパワーを引き出すならチャージャーの圧縮比の調整がいるな。」
「俺は、こいつで忙しいが・・・」
とタービンキットを顎でしゃくる。
「・・・おまえが自分でするなら見てやるぞ。」
要の目が輝いた。メカいじりは小さい頃から得意なのだ。
「よろしくお願いします。」
と勢いよく頭を下げた。
原田は壁にあるキーボックスに手を伸ばし、ドッジのキーを取った。
「ほれっ、裏からこっちに回して来い。」
『チャリッ』
要は原田の投げてきたキーを受取ると、ドッジの停めてあるビルの裏手へ走って行った。
いつも要には優しい原田だが その朝は気前がよすぎるぐらいに物分りが良い。
工場長のタービンキットに没頭できるのがよっぽど嬉しいのか・・・。
「原田さんも、梶さんがいないと気が楽なんだろうな。」
そう勝手に納得する要だった。





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