Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー95

犬飼は銀座でワインを一本仕入れ、おっしょはんの所へ姿を現した。
腕時計を見ると5時10分前だ。
『ピンポ~ン』
「は~い」
ドアベルを押すと、すぐに奥からのんびりした返事が聞こえ、パタパタと軽い足音が玄関に近づいてくる。内側からドアが開き、いつもと変らない笑顔でおっしょはんは犬飼を迎えてくれた。
「ほい ワイン。」
「あら~、犬飼さん、お帰りなさい。よかったわ。心配したのよ。」
「心配したって、ワインの事?」
「バカね~、あなたの事に決まってるじゃない。」
おっしょはんはワインを受け取ると、ばしばし犬飼の肩を叩いた。
「5時に連絡が入るはずなんだ。上がらせてもらうよ?」
「どうぞ~。」
犬飼が玄関で靴を脱いでいると、おっしょはんは
「麦茶飲む?それとも、ビール?」
と言いながら、台所へ向かった。
「麦茶でいいよ。仕事部屋に行ってるよ。」
この暑さだ。
ビールで一杯といきたい所だが、今夜の事がある。犬飼が仕事部屋にあぐらをかいて、どうやらおっしょさんがさっきまで縫っていたと見える着物に目を落としていると、氷をカラカラいわせながら、おっしょはんが部屋に麦茶を持ってきた。

「今日も暑いわね~。」
と、机の端に麦茶の盆を置く。
『RRRRRRR』
「あら、かかってきた。時間通りねえ。」
時計をちらりと見ながら、おっしょはんは部屋の隅の電話に手を伸ばした。
「も~しもし。」
「もしもし、犬飼さんはいらっしゃるでしょうね?」
受話器を手で押さえたおっしょはんは目で犬飼に合図をする。目敏くそれを見た犬飼は受話器を受取った。
「もしもし 電話を変りました。」
「あなたが犬飼さん?」
相手はおっしょはんがいっていたとおりテノールの落ち着いた標準語だ。
「そうだが どちらさん?」
「情報は気に入ってもらえましたか?」
男は犬飼の質問には答えない。
「名乗りもしない相手からの情報を信じるほど俺は甘くないぜ。」
「信用するかしないかは、そちらのご自由ですな。」
男は気にする風もなく、さらりと流した。嫌なやつだ。
「それより、ひろみと話させてくれ。」
「申し訳ないが、今医者が往診中でね。」
「あいつになにかあったのか?」
犬飼は思わず腰を浮かせた。
「そろそろ抜糸するのでしょうな。」
男の声には抑揚がない。
「話を元に戻しますが、情報の価値は当然お判りだと思う。」
「それで、値段の事だが・・・」
と勝手に話を進めていく。
「残念ながら、俺の後ろに財閥は付いてないぞ。」
犬飼はようやく、そう言い返した。すると男は乾いた笑い声を上げ、
「それは存じている。中小出版社ではさほど出してくれていないだろう。」
犬飼は絶句した。この男は出版社の事を既に知っているのか?
「なぜ・・・」
「値段の事だが、犬飼さんは当然倶楽部に潜入されると思うが?」
男は構わず続ける。
「実は、支配人の部屋の壁に、大変すばらしい絵が一枚飾られてる・・・」
「絵・・・?」
「そうだ。当方の要求は、潜入したついでにその絵を持って帰ってきていてだくことだ。」

「なんだと・・・」
綿密な見取り図が手に入ったからにはもちろん潜入しようとは思っていたが、泥棒の真似をしろというのか?
「そんな事が出来るはずが・・・」
「現在、倶楽部支配人が神戸に出ており、倶楽部は守備が手薄だ。それに・・・」
「・・・わずか絵一枚で美女が無事に戻ってくるなら安いというものではないか・・・」
「う・・・・」
相手は痛い所をついてくる。
電話の向こうからはくっくっと含み笑いが聞こえるようだ。
「それと、情報をもう一つ差し上げよう。」
犬飼が言い返せないでいると、男が続けた。
「若い男を一人囮に神戸において行っただろう?」
と前置きをして、
「横浜の追っ手は3人、倶楽部の誇る殺し屋部隊だ。井上医院の通り向かいの雑居ビルからあなたの囮を監視している。」
「・・・」
「男達は今日バイクを2台手に入れた。・・・私なら囮の男には手を引けと伝えてやるがな・・・。」
淡々と言う男の声に、犬飼は血の気が引いていく気がした。
「さて、また明日この時間にこちらからご連絡しよう。」
しばらくの沈黙のあと、男がいった。
「・・・そちらでは符丁があるらしいな?私のことはこれから『3110』とでも呼んで貰おうか。」
そう言いのこし、電話は唐突に切れた。
犬飼はこの男がどうも全てを知っていて情報をリークしているように感じた。
直感では倶楽部に通じた人間に違いない。いや、内部の人間という事も十分考えられる。
「あ~ら 怖い顔・・・」
切れた電話の受話器を握ったまま犬飼が眉間に皺を寄せ考え込んでいるのを見て、おっしょはんが受話器を取り上げ電話機に戻した。
「あっ うん・・・」
犬飼は慌てて普段の顔に戻した。
「麦茶がぬるくなるわよ」
「ああ・・・」
犬飼が思い出したように麦茶に口をつける。
『私なら手を引けと伝えてやる・・・』
男の言葉が犬飼の頭の中を壊れたレコードのように繰り返し繰り返しこだました。

犬飼は気が付いたようにメモ帳を取り出して、アキラへの伝言を書き出した。
敵の人数、バイクのこと、敵が潜んでいる場所・・・男の言っていた情報をアキラに伝えなければならない。
「アキラから今晩定期連絡があると思います。」
と言って、それをおっしょはんに渡した。
「あいつには手伝ってくれと頼んだが、危険すぎるので撤退するよう、必ず伝えてください。」
「必ずね。」
おっしょはんがうなずいた。
「それと、明日の5時、またさっきの男から電話があります。今度からあの男は『3110』と決まりました。」
「そうなの?わかったわ。」
「ひろみさん、どうしてるって?」
おっしょはんが覗き込むようにして聞く。
「医者が診てくれているそうです。」
「そう、よかったわね。」
おっしょはんは胸をなでおろす。
「ねえ、犬飼さん、その人案外悪い人じゃないのかもね。」
「そんな感じがするの。」
彼女はそう言いながら犬飼ににっこりと笑いかけた。
犬飼はしばらくその笑顔をまじまじと見ていた。この人は物に動じないというか、根本的に太っ腹な人なのだ。
「はは、そうですね。俺もおっしょはんの勘を信じますよ。」
「あら うれしい。あなたの良い所はそうゆう所ね~。」

いつもながら、おっしょはんと話していると、興奮していた心中が落ち着いていく。
「じゃあ、そろそろ行きます。ワインは今度ご一緒しましょう。」
笑いながらそういい犬飼はおっしょはんの家を出て車屋に向かった。





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