Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー115

犬飼は仮眠をとるため、ソファーに横になっていた。今夜は長い夜になるはずだ。
眠ろうとしているのだが、やはり犬飼ほどの男でもそう具合よく切り替えができるわけではない。
いつもの持ち前の陽気さが無くジメジメした霧の中に引きずり込まれるように感じていた。
東京に帰ってきて、6日目の夜である。
紐育倶楽部に付いて、外から調べられる事は全て調べつくした感があった。
編集長の内部調査も後は証拠固めの段階だ。何十年にもわたって社交クラブを装っているが、その実態は、秘密結社である。
編集長は、政治家を裏から操っているとも考えているようだ。
「時代錯誤・・・」
始めはそんな気がしないでもなかった犬飼も、倶楽部の客の面々を知るにつれ、編集長に同意せざるを得なくなってきていた。うまく行けば、
「こりゃ、一世一代の大仕事になるぜ。」
その思いが、犬飼のルポライターの血を沸かせるのだが、確実に自分の意思ではない物が計画に織り込まれているのが気に入らない。

『3110』は5日間、毎日夕方の5時きっかりにおっしょはんの家に電話を入れてきた。
倶楽部の建物内の情報も小出しに伝えてくる。

「犬飼さんは、芸術に興味はないのでしょうな?」
2日前の定期連絡で『3110』が唐突にそう聞いた。
犬飼は、相手が支配人の部屋の絵の事を言おうとしているとすぐさま悟り、
「俺の芸術は、きれいな女と、うまい酒だけにとどめてるんでね。」
と、返した。
バブル経済が崩壊する前は、日本の財界人が世界の美術品を高値で買いあさって国際的に顰蹙を買ったものだ。芸術と言うと、犬飼はどうしても、そういった金持ちの道楽を連想し、嫌悪を感じてしまう。
電話の向こうから、諦めたようなため息が小さく聞こえたのち、
「支配人の部屋の絵は、少女が猫を抱いた絵だ。」
『3110』が事務的に説明を始めた。
「絵の大きさは、15号だ。大きくはないが、もちろんポケットに隠せるサイズではない。」
「15号?」
『3110』は再びため息をつく。
「肖像画の大きさは65センチX54センチだ。女は、無傷の絵とのみ交換する。美術品の扱い方も、勉強していく事をお勧めする。」
「人の命より、そっちを守れということか?」
犬飼が苦々しげに言った。
「芸術とはそういうものだ。」
犬飼は、また一つ課題を抱えた気分だった。
65センチX54センチとは、かなり大きい。入るときは客を装えても、そんな大きな荷物を抱えてどうやって無事に外に出ろというのだ。

「さて、話は変わるが、倶楽部の支配人がそろそろ、横浜に帰るようだ。」
『3110』が言った。
「支配人が戻ると、そちらの仕事は数段難しくなるぞ。」
男はそう警告し、いつもの事で、一方的に電話を切った。
『3110』が何者なのか、依然として解ってはいないが、編集長との間では、倶楽部の幹部『斎藤』らしいと言うことで、落ち着いていた。
斎藤は何か倶楽部に反旗を翻す理由があるのだろう。
事故死したと言う情報部のトップが関係しているのかもしれないし、単なる権力争いなのかもしれない。
犬飼に絵を盗ませようとしているのは美術品に興味があると思わせているだけとも考えられる。
しかし、この男の目的がなんであれ、その為に、外部の犬飼を利用してやろうと言う魂胆にはかわりない。
「なめやがって・・・」
孫悟空じゃあるまいし『3110』の手のひらで踊らされるのが犬飼は気に食わないのだ。
しかしながら、ひろみを押さえられている限り、こいつとのコンタクトをきるわけにはいかない。
自分にとって、これがボルトネックとして後々厄介ごとになるのは知れている。
しかしひろみに対して非情になりきれないということも、犬飼自身わかっているのだった。
「・・・が、いつまでも悩んでもしようがない。判断に迷ってこの状況を生かさなければ虻蜂取らずになりかねない・・・か」

犬飼は潜入を今晩に決めたのは必然だと結論付けた。編集長と『3110』に急き立てられているからだけではない。アキラと要が神戸で奴等を引きつけられるのも、ここ、一日二日が限度だろう。
「倶楽部の尻尾を掴んだら、斎藤の化けの皮も剥させてもらうさ・・・」
そんなことに思いを巡らせながら、漸く犬飼はまどろみ始めた。





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