Nicotto Town


しだれ桜❧


刻の流れー117

紐育倶楽部の厨房は大忙しだった。
客の数がいつもより多いわけでもないのに、食事の時間が重なってしまっている。
普段は田中が巧みに時間をずらして予約を取るためこんな事にはなったりはしない。
それが、田中が神戸に出払っている間の自分の代理に立てていった男が、段取りの悪い奴で厨房の不評を買ってしまっていた。
メニューも注文もぎりぎりまで回ってこず、調理人たちは口々に悪態をつきながら調理をこなすことを強いられた。
それに振り回されるのが下っ端たちだ。
食材や、食器を調えるのに右往左往することになる。
今しも慌てた一人が皿の山を引っかけて床に撒き散らしてしまった。
『ガチャガチャガチャーン、チャリチャリ』
「ばかやろうー 何やってんだー」
料理人の怒鳴り声が飛ぶ。
他の下っ端がすぐに箒とモップを取り出し塵取りで片付け始めた。
「頼むから、仕事をふやすなよな」
ぶつぶつ言う。
誰も彼も、イライラしているのだ。
「すいません・・・」
皿を落としたのは、まだまだ少年の面影の残るの新人で、本人は、泣きそうな顔をした。
「いいから、代わりの皿を取って来い。」
料理長が助け舟を出す。
「はい、すぐとってきます」
「場所はわかってるな、いけっ」
下働きの少年は料理長にペコッと頭を下げてそう言うと、外の倉庫に走り出だした。

厨房からあわてて出てきた男が倉庫の中に消えるのを待って、犬飼は伏せていた地面からむくっと起き上がった。
マンホールの蓋を戻ってきた時に開けやすいよう、横にずらして置き、自分は植木の陰に一旦身を隠す。
すると、はじめの男を追うように、下働きがもう一人大きなかごを抱えて厨房から走り出てきた。
「3番の棚、3番の棚・・・」
ブツブツ言っているのがここまで聞こえてくる。
それにしても、今夜も倉庫と厨房の間の出入りが激しい。
高級紳士クラブの厨房にしては、なんともどたばたしている。
幾晩も倶楽部を探っていた犬飼は、そう感じていた。
これが、『3110』の言う、『田中支配人がいないことで、倶楽部の歯車がスムーズに動いていない』証拠なのだろう。
「まあ、俺にとっては好都合だがな。」
2番目の男が倉庫に入ろうとした所に、はじめの男が皿を抱えて飛び出してきた。
『ガラガラ、ガッチャーン』
「ああああ~」
犬飼はこのドサクサに紛れて、中に入る事にした。音を聞いて駆けつけた振りをして倉庫へと走る。
犬飼は開け放されたドアから倉庫に入り、手前の皿を5枚ほど失敬した。
そのまま、騒ぎながら割れた皿を片付けている下働きたちを尻目に、厨房の勝手口へ向かう。
「ここも監視カメラがあるからな・・・」
犬飼は抱えた皿を気にするように、顔を心持下に向けた。
カメラの向こうでモニターを見ている見張りは白いシェフコートの下働きが皿を抱えて戻ってきたことを確認して
「チェック」
とチェックシートの印をつけ、ロックを解除した。
犬飼は、皿を胸に抱え込むようにして勝手口から中に入る。
厨房は、皿や、調理具のぶつかる音と、人の怒鳴り声で溢れていた。
厨房の向こう側には、給仕が使うエレベーターがあるはずだ。
犬飼は皿を持ったまま、厨房を大胆に横切った。
料理人も、下働きも、忙しくて侵入者に全く気付かないようだ。
犬飼は持っていた皿をそっと台の上において、エレべーターに乗り込んだ。





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